鬼の里 小噺
鬼と女とは、人に見えぬぞよき
虫めづる姫君
異能の力を宿して以来、その少女は人との触れ合いを断ちきり、山に籠った。
怖かったのだ。自己を失い人を傷つけてしまうのではないかと言う危惧が叫んだのだ。
そして畏れたのだ。到底力及ばぬはずの異形に自らが変異してしまったことに。
角が生えた。歯も伸びた。眼が紅く染まった。一殴りで獣を昏睡させられるようになった。変わらなかったのは、白磁の肌と容姿だった。だが救いにもならなかった。
元より少女に身よりの者など存在せず、山に逃げ込むことを後押しする要因となった。
少女は今日も今日とて、建物と言うにはおこがましい掘立小屋で目を覚ますと、漏れこむ日光に“黒い”瞳を瞬かせると、ほう、と息を吐き、すぅ、と吸い込み朝を楽しんだ。
季節は初夏に差し掛かろうと言うところ、彼女が住む山中はどこか涼しげで、緑黄に土色の息づく美しき大自然。まず、布団代わりの布切れを体に抱くと、寝まきと言うよりボロ布のような服をいそいそと脱ぎ始める。
恥じらおうにも、山中で人気そのものが無いのだから、必要が無い。
上を脱げば、年頃の娘の絹肌が露わになるか。均整のとれた胴の中央は左右共に内側に曲がり、肌を押し上げる筋肉の線が陽の光と相成って、色の移り変わりを描き出している。
視線を上に追うなら、人体の支えに持ちあげられている程良い大きさの双丘が見えてくるだろう。春夏だった。白磁、象牙、雲、曇りなき肌は腕の付け根から持ちあがっていて、触れれば弾かれるような若さが光っていた。
見よ、肢体を。鶴のような首、そこから経由する鎖骨の先に彫像のような細腕。爪は計算された楕円。
そして脚は、余りに自然に落ち込んだ臍から下の部分から繋がり、見る者を圧倒する曲線美があった。男なら生唾を呑み凝視するだろうか。
白磁に鴉の濡羽色の髪が流れる。
腰まで届かんと言う長さ。手入れをしても居ないはずというのに、流水が如く艶やかに屈託なく笑っていた。身じろぐ度に全てが集合体であるようにふわり、さらり、と音を立てるようだった。
そして目は夜空を煮詰めた色で、脇差で斬り込みをいれたように輪郭があり、まつ毛が長い。
彼女の頭の先から伸びるは、本人の主観で醜いと思っている二本の角。
少女の名を、日本鬼子といった。
鬼子は、手早く服を脱ぎ捨てると、己が鬼になる前の財産であった和服に手を伸ばした。紅葉が咲き誇る、見事な服を時間をかけずに着てしまう。
右左の重ねを間違えぬように注意を払いつつ、帯をしっかりと巻くと、おもむろに部屋に立てかけてあった金棒を取って、空いている方の手でそれを頭に被せた。
それは醜悪な表情を浮かべて睨みを利かせる鬼の仮面であった。
鬼子は、仮面を頭の横に斜に乗せると、金棒を重力を無視したように細腕で肩に担ぎ、小屋の扉を開けて出て行った。
小屋の周囲は習慣としている草むしりや掃除のお陰で掃き清められており、丁寧に踏まれて作られた獣道に砂利を撒いて補強した道が伸びていた。
近くには小川。そして深き森。
人里から離れたこの地に、彼女は経った一人で毎日を送っているのだった。
否、少々うるさい子供と、妙な色の髪の毛をした何でも違う国からやってきたという変わり物が度々訪れて来ることがあるから、完全にはそうとは言えぬか。
どちらにしろ、今はたった一人だった。
なぜか甲虫やら蝶々やらに好かれるが、この際その話は割愛する。
朝飯代わりに小川で唇を濡らし、手の甲で口元を拭うと、天を眺める。青かった。雲があった。鳥が飛び去った。風が吹き、黒髪を揺らし、紅葉模様の和服をはためかせた。
鬼子は和らいだ表情を見せたのもつかの間、目じりに力を結ぶと、金棒片手に歩き始めた。
そして駆けだすや、瞳の色が“赤”に変貌した。
「人里を狙うなんて、許さない」
呟いた言葉は震えていた。
鬼子は、今となっては同類とも言える物の怪の類の気配を辿り、人里の方角に近付けないよう追い払うべく地面を蹴り飛ばした。
※ ※ ※ ※
「……どうぞ」
「Halo、鬼子ー」
昼過ぎに戸を叩いたのは、金髪に同じ長髪をした一人の女だった。
鬼子は決して教養があるほうでもなかったし、読み書きが十分にできるほうでもなかったが、少なくとも「へろう(本人にはそう聞こえている)」なんて言葉を使っている人間を見たことが無かった。
戸と言うより板を開ける。青目に金髪。見たことも無い黒いひらひらとした服。堂々たる凹凸が目に飛び込んでくる。
着物を着る関係上体の線が分かりにくい鬼子と違い、その相手はどう考えても意図的に胸を見せたがっているようで、服の胸元が開いている。
文明の衝突と言うべきなのか、初対面の時に鬼子は「この人は身を売って生活しているのだろうか」と考えたほどだった。
もちろん鬼子だって動きやすいようにと着物の脚の部分を短くしてしまっているが、必要に迫られたからそうして居るだけで普段はそうではない。
金髪の女の名を、西洋魔子、といった。
それは本名なのかと怪訝な目で尋ねたことがあるが、曖昧に答えをはぐらかされた。
日本が何かを言う前に、西洋が腕を使い豊満な胸の内に誘った。身長差から、丁度頭から胸に導かれる格好となった。
よしよしと言わんばかりに魔子は鬼子の頭を撫でる。
「なにをしているのですか………」
「スキンシップよ? 知らないの?」
「すきんしっぷ?」
「そうそう。仲良くなる為には、私の国では抱擁をせよとのことなの」
「本当………なのですか?」
「ええ。とあるクニでは頬を合わせたりするそうよ。知らないけど」
どうにも掴みにくい人だな、と鬼子は思いつつ、胸の大きさに改めて驚愕するのであった。
位置関係的に、魔子の頬が緩みっぱなしなのにはこれっぽっちも気がつけなかったが。
悲しいかな、一介の町娘に過ぎなかった鬼子にはその手の知識が紙切れほどになかったのだ。