こにぽん!こにぽん!
背筋がぞくりとする冷気を感じ、不意に目を覚ました。寒さのせいか、寝起きだというのに妙に意識がはっきりとしている。
ベッドの上においてある目覚ましを見ると、セットした時間より20分程早く起きてしまったらしい。なんとなく勿体無さを感じる。
二度寝をしようと再びベッドに転がり、毛布をぎゅうと体に巻きつけた。数分をその体勢―はたから見れば巨大な蓑虫―で過ごすものの、一度はっきりと覚醒した意識のままでは、もう一度あの至福の時間に戻ることはできなさそうだった。
そして何より寝付けない理由の最大の要因は
「寒い……」
そう、非常に寒いのである。まだ初秋であるはずなのに、室内で呟いた俺の吐く息には白いものが混じっている。とても毛布一枚では耐え切れそうにも無い。
この寒さのせいで、寝起きだというのにこんなにも意識がはっきりとしているのだろう。普段の俺の寝起きは、非常に悪いのだ。目覚ましが鳴ってからも一時間は寝続けている、という具合に。そのせいで遅刻の常習犯になっていたのはまた別の話。
「こんな寒さが続くようじゃ、毛布一枚だときついよなぁ。布団を出すしかないか。……くぁあ」
二度寝ができないのなら仕方ない。あの心地よさを味わえないのは非常に残念であるが、諦めてベッドから起き上がり、一つ伸びをしてみた。
体中の骨が、小枝を折った時のような軽快な音を上げる。たまには早起きもいいものだと前向きに考えてみよう。
それに、起きなかったら起きなかったで、ここ最近同居を始めた奴らに無理矢理叩き起こされるのだ。その時の苦痛を考えれば、今日は自分で起きられて良かったと思う。
さっさと顔でも洗って温かいコーヒーでも飲むかと、ドアに向かって一歩を踏み出した時だった。ドアノブがゆっくり回され、微かな軋みを上げてドアが開いていく。
「……にい様、まだ寝てる?」
開いたドアの隙間からひょっこりと顔を出して、遠慮がちに声をかけてきたのは、見た目は歳のころ10歳前後の小柄な女の子。
くりくりとした大きな瞳で俺の部屋をざっと見渡し、ドアの脇に立っていたこちらの姿を見止め、いつもより早起きな俺に驚いたのか、その瞳がますますまん丸になった。
「あれ、にい様がもう起きてる! まだ目覚ましも鳴ってないのに! なんでなんで〜?! すごーい!!」
俺が早起きしていることはそんなにも驚愕する事態なのだろうか。
少女は驚きの喚声を上げつつ、勢いよく室内に飛び跳ねながら駆け込んでくる。桃色に花びらを散らした柄の着物の袖が軽やかに舞う。襟足が首筋まで伸びているショートボブの髪の毛がふわふわと優しく跳ねて目に楽しい。そして
「おぐぅ!!」
……駆けた勢いのまま俺のみぞおちに見事な頭突きを決めてきやがった。当然息がつまって言葉を発することができない。あまりの衝撃に膝を着きそうになったが、かろうじて堪えた。
こんな小さな少女の頭突きでダウンしたなど、末代までの笑いものになっちまう。だが呼吸まではどうにもならない。
「くはっ……こひゅー……ひゅー…………おぇっ…………」
「あれ? にい様どうしてそんなに苦しそうなの? お腹痛い?」
喘ぐ俺に抱きつきながら、少女が心配そうに声をかけてきた。
お前の馬鹿力のせいで苦しいんですよ、とは流石に言えず、手のひらを相手に向けてちょっと待てのジェスチャー。必死に呼吸を整えた。
少女は相変わらず俺に頭突きをかました時の姿勢のまま、こちらの腰に手を回してひしとしがみついている。心なしか今度は横腹の筋肉が悲鳴を上げている気がする。
抱きつきながら俺を見上げてくる瞳は、純粋無垢な子供のそれ。悪気など毛ほども無いのだろう。それはわかる。
こちらとしても、小さな女の子に兄と慕われることに悪い気はしないが、それでも痛いのは勘弁願いたい。なので、相手を傷つけないように優しく声をかけてやった。
「離せやこらお前の馬鹿力で苦しいんだよ離れろ」
「え……にい……さ、ま……?」
まずい間違えた! つい理性が本能に負けて本音を出してしまった! ああほら、びっくりして固まってるじゃないか。早く言いなおさないと。
「すまん今のは冗談だ。だから泣くな……痛い痛い絞めないで絞めないで何か出るから! お腹圧迫されて中身が出そうになるから!」
「ば……馬鹿って……にい様が馬鹿って……今言ったぁ……」
「言ってないぞ言ってない! 言ったとしたらそれはきっと小日本が馬鹿みたいに可愛いって言ったんだよだから離して! 何かが搾り出されちゃうから!!」
「嘘だぁ! 言ったもん! それにまた約束破った! こにぽんって呼ぶ約束だよにい様! こ〜に〜ぽ〜ん〜!!」
「わかったこにぽん! こにぽん苦しいからちょっと力抜いてお願い! ほんと無理だから……!」
「こには馬鹿じゃないよね? にい様から離れなくてもいいよね?」
「こにぽんが馬鹿なわけないだろ! 才女だよ才女! そして離れなくていいからせめてもっと優しくぅ……!」
あまりの苦しさに呼吸が止まりそうになる。いや実際今止まったかも。だって息吸えないし。こにぽんの馬鹿力のせいで肺から空気が全て搾り出された。このままでは本気で窒息死しかねない。
こんな時はどうすればいいんだったか。長い付き合いではないが、それでもそれなりに学んだことはあるのだ。必死に記憶を手繰り、そういえばと、あることを思い出す。
こにぽんが拗ねた時や怒った時、この子の姉はよく頭を優しく撫でてやっていたっけ。
その光景が脳裏に浮かんだ瞬間、俺は迷うことなく自分の手のひらをこにぽんの頭にぽんと乗せ、そのまま前後に優しくさすってやった。
「ふあ……? ん……」
突然俺に頭を撫でられたこにぽんは一時は戸惑いの声を上げたものの、俺が頭を撫で続けると、その声は徐々に気持ちよさそうな甘える声へと変化を遂げていった。
「んう〜。……くふふ、くすぐったいよにい様……」
「そうか。とりあえずは落ち着いてくれたようで何よりだ」
主に俺の命に関わる面で。
どうやら今のやり方で正解だったらしい。こにぽんは先ほどの馬鹿力が嘘のように、今はほんのささやかな、それこそ只触れるだけの力具合で俺の懐に身を預けている。
「撫でられるの好き〜。にい様は上手だね!」
「そうか? ならもうちょっと撫でてやろう」
「うん! えへぇ〜」
気持ちよさそうににこにこと笑いかけられては、こちらとしても頭から手を離すのが名残惜しくなってしまう。リクエストにお答えして、もう少しだけ撫で続けることにした。
こにぽんの髪の毛は、子供特有(なのだろうか? 他の子の髪の毛なんか、触ったことが無いからわからない)の柔らかな感触で、押さえつけてもその弾力ですぐに膨らみを取り戻す。
なんだか長毛種の猫か犬をあやしているみたいな気になってくる。こにぽんが気持ちよさそうに微かな笑い声をあげるので尚更に。
暫く少女の頭の感触を楽しんでいると、不意に俺の手のひらがこにぽんの額のある部分に触れてしまい、その拍子に彼女が小さく驚きの声を上げた。
慌てて謝る。
「ああ、悪い悪い。痛かったか?」
「ううん、痛くはなかったけど……。急にさわられちゃったからびっくりした。敏感なところだから」
「そうだったな。今度から気をつけるよ。ごめんな」
「うん。角はとっても大事なところだから、簡単に触らせちゃ駄目って姉さまも言ってたもん。だから触るときはちゃんと言ってね、にい様」
許可を取れば触っていいのか? そんな簡単なもんでもないような……。まあ、まだ小さいからきちんとは理解していないのかも知れない。
俺なんか、こにぽんの姉から『触ったらへし折る』とまで言われたのに。何を? とは勿論聞いていない。というか聞きたくない。
改めてこにぽんの額に目をやる。そこには、ほんの数センチではあるが、確かな突起物―一本の角―が、前髪を掻き分けて突き出していた。
そう。この少女、本名を小日本と名乗る小さな少女は、額に一本の角を持つ鬼の子供なのだ。
昔はどこにでもいたというのだが、現代社会ではその姿を見ることは珍しくなってしまった、正真正銘鬼の娘。
だからこその馬鹿力。鬼特有の能力で、身体能力が只の人間とは比べようもなく高いのだ。でなければ、俺が只の少女に絞め殺されかけるなんて有り得ない。
普通の子に抱きつかれたところで、はははこやつめ、で軽くあしらえてしまう。
因みに、にい様と呼ばれてはいるが、俺は鬼ではない。只の、それこそどこにでもいる一般的な十代男子だ。同居している年上の男ということで、にい様と呼ばれているにすぎない。
まあこにぽんは兄が欲しかったと言っていたので、本当の妹のようによく懐いてくれている。
小日本という名なのにこにぽんと俺が呼んでいるのは、そう呼ばないと彼女が怒るからだ。でないと先ほどのような地獄を見る破目になる。迂闊だった。
こにぽんは○○歳という歳のわりに背が小さいことを気にしていて、自分の名にある『小』の一文字が気に入らないらしい。
では何故こにぽんはいいのかと尋ねたら、響きが可愛いからと、打てば響くと言わんばかりの即答だった。やはり子供だ。
ああ、当然というのもなんだが、こにぽんの姉も正真正銘鬼の娘。歳は俺と同じで十六歳。だが、こにぽんと違い額の角は二本ある。
何故本数が違うのかと、出会ってから数日経ってようやく尋ねてみたことがある。恥ずかしながら、俺は鬼の人について全くの無知だったのだ。
教えられたことによると、鬼の角は十五の歳までは一本なのだが、十五歳になってから幾日かが過ぎると、一本角は抜け落ちてしまうそうだ。その後間もなく、新たに二本の角が額から生えてくる。
要は人間の乳歯と永久歯みたいなものらしい。大人になった証ってやつか。だから子供のこにぽんは一本で、姉の彼女は二本なのだ。やはり俺達人間とは大分違うのだなと、その話を聞いたとき思ったものだ。
閑話休題。
姉と言えば、ふと気付いたことを未だ俺に抱きついたままのこにぽんに尋ねてみた。
「なあこにぽん。なんでこんなに早くから俺の部屋に来たんだ? 姉ちゃんと寝てたんじゃないのか」
「うん。でもねえ様は先に起きちゃってて。こにが起きたらお部屋に居なかったから、にい様のところに遊びに来たの」
「遊びにって……。俺がまだ寝てたらどうするつもりだったんだ」
「え〜? そしたらいつもにい様を起こすみたいに、お腹の上にどーんってしようと思ってたよ」
それはやめてっていつも言ってるのに……。
今朝は自分で起きられたから、最近恒例のこにぽんフライングボディアタックを喰らわなくて済んだが、俺の不用意な一言で地獄の鯖折をかまされたので、結局痛いのは同じだった。
もしかしたら、こにぽんに新たな必殺技を授けてしまったのかもしれない。恐ろしいことだ。
「で? 姉ちゃんはこんなに早く起きて何してんだ?」
「わかんない! 多分ご飯作ってるんじゃないかな?」
そうかもしれない。毎朝の朝食は彼女が作ってくれているので、こにぽんの予想は恐らく当たっているだろう。
その時、丁度目覚ましがけたたましい騒音で起床時間を告げた。
その音を合図にこにぽんは俺の懐を離れ、ベッドに駆け寄り目覚ましを止める。何がそんなに嬉しかったのか、そのまま顔だけを俺のほうに向けて、にこやかに微笑みかけてくる。
「ありがとうこにぽん」
「どういたしまして! えへへ!」
とりあえず礼を言ったら、胸を張って無邪気に破顔する。その笑顔につられ、思わずこちらも頬が緩んだ。今の笑顔だけで、さっきまでの痛みなんて吹き飛んでしまう。
「じゃあ、下に行って朝飯の準備でも手伝おうか」
「うん! ねえ様のお手伝いする〜」
俺の提案に大きく頷きを返し、こにぽんは先に立って部屋を出る。着物の裾を翻し軽やかに駆けていく少女の後を追って、俺も部屋を後にした。
初秋だというのに、少女が纏う桃色の着物からそよぐ風に春の息吹を感じた。
廊下に立って、思い出したかのように身震いを一つ。そういえば、寒さのあまり目を覚ましたんだったけ。
とりあえずは顔を洗ってから、予定通りコーヒーの一杯でも飲もう。俺がコーヒーを飲んでいると、鬼の子二人はとても嫌そうな顔をする。
炒った豆から抽出した黒い水など、視界にも入れたくないのだそうだ。
そんな二人の表情を眺めながら飲むコーヒーーもまたいいものだ。俺は密かにほくそ笑んで、階下へ降りようと階段へ一歩を踏み出した。