名も無き鬼の子
時は平安魑魅魍魎が溢れかえる現世の地獄・京都
黒き雲に覆われたそこに日の光が当たることはない
人々は物怪と目をあわせぬよう俯いたまま足早に帰路につき、
物怪に憑かれた者は光の灯らない目をして大路を闊歩している
その夢も希望も奪い去られた死と絶望の町に一刃の薙刀が舞う…
肉を切り裂く音と水が飛び散る音が町に木霊する
「これで今日五十匹目…」
齢十六、七の女、頭の横に般若の面をつけ、手には血に濡れた薙刀を持ち、美しい衣に身を包んでいる
容貌は整っているが、双眼には憂いと冷たさを湛えている
顔は面の様で笑い顔など見せたこともない
彼女に名前は必要ない
親は物心ついた時にはもういなかった
知り合いなどいない、友人などもってのほか
人知れず物怪と戦う彼女の頭には二本の角
そう、彼女は人々に疎まれる存在…鬼の子なのだから
ー五月蝿い隣人ー
「しかしここらにも物怪が入ってくるとは…そろそろ塒の変え時か」
彼女の今の仮住まいは人間の家である
元の主人は物怪に喰われてしまったのだろう、空き家になっていたのをしばし拝借していたのだ
「ここは村外れだから人間どもに見つかりずらいし、
喰い物にも困らないしで随分住み心地がよかったのだが、致し方ない」
あくまで人目につかない場所へと、鬼の子は今日の塒を探す…
一刻程の後…
「この家でいいだろう」
鬼の子が新しい塒に足を踏み入れる
障子は破れ畳は腐り釜には蜘蛛の巣がかかっている
他に家財がない様子を見るに大方盗人でも入ったのだろう
家主がどうなったかは大黒柱の黒い染みが物語っている
(まっ、私には関係ないがな)
思いつつ鬼の子は畳の上に寝転がる
(少し寝よう…さすがに殺し疲れた…)
微睡み始めた矢先に何者かの悲鳴、距離にして約三百丈
(この声は…幼子か?
まぁ所詮は人の子一人の命、私には関係ない…)
そう思い再び微睡みの中に堕ちようとする
するのだが、その間も幼子の悲鳴は続く
心の中で悪態をつきながら立ち上がり壁にかけてあった薙刀の柄に手をかける……
ー陽光との邂逅ー
少女は駆けていた
薄い赤色の衣の裾を膝までたくしあげ、襲い来る物怪から己を一寸でも遠くへ追いやろうと路地を右往左往し
民家を横切り助けを求めて喉が張り裂けんばかりに叫んでいた
喉は枯れ足は擦りきれ血が滲んでいたが構わず走り声を張り上げ続けた
しかし救いの手はさしのべられない
後ろからは物怪が大小併せて廿、卅ほど迫ってくる
幼子の足の速さなどたかが知れているが物怪は敢えて幼子が諦めず走り続ける速さを保っている
幼子が苦しむ姿を見て楽しんでいるのだ
しかしそれもこれまで
幼子が力尽きて足を滑らせたのを機にその子を喰らわんと口を開けて子に迫る
(南無…阿弥陀仏…)
涙ながらに念じた幼子の目の前に光る雷
しかし後に続くはずの雷鳴が一向だに聞こえてこない
「全く、うるさい餓鬼だな」女の声
その声に呼応するかのように、
此の時まで雲一色だった空が裂け、一筋の陽光をその女に降り注いだ
黒光りする長い髪、整った容貌、冷たい目、美しい衣、頭の横につけられた般若の面、血塗られた薙刀、そして二本の角
鬼の子が、そこに立っていた
幼子が雷だと思っていたのは鬼の子が腕に抱えている薙刀の刃
「どうした物怪、私は早く眠りたい、お前達が来ないなら私から行くぞ」
言うが速いか少女を蹴り飛ばし薙刀を片手に鬼の子は物怪のもとに駆け寄り最初の一振りで五匹の物怪を殺める
その隙に懐に入ってきた物怪の首を虫を払うように吹き飛ばす
背後に回って襲いかかる物もいたが肘鉄で心の臓を粉々にする
薙刀を両の手で持ち振りかざして十匹を斬り殺す
幼子が立ち上がった時には全てが終わり、残されたのは肉塊と大量の血とその中に佇む女
ー血と肉と涙とー
「お前、喰われたりしてないのか」鬼の子は真にどうでもよさそうな口調で言った
「…はい」涙ぐんだ目を手でかきながら幼子が答える
「そうか…人間どもは魑魅どもに喰われた所から腐っていくからな
お前は幸運だったんだろう」
「あの……ぉ…」
「なんだ、用事がないなら私は塒に帰って寝たいのだが」
「ぉ、お礼を、お礼をさせてください!」幼子は未だ震える体でそう言った
鬼の子は一瞬口を開けたまま棒立ちになったが
「お礼なら今後物怪どもに襲われようと大声をだすな」
「そうじゃ……なくて……」
「私にとってはそれが一番大事だ、というか人間に礼を受けても嬉しくもなんともない」いいつつ物怪の血溜まりの中を立ち去ろうとする鬼の子
「せめて…せめて名前だけで「名前はない」
鬼の子の冷たい言葉に肩を震わせ唇を噛み涙を堪える幼子
(人間の餓鬼はこんなに面倒くさいのか…)溜め息を付き、頭に乗った般若の面をもてあそんでいると、一つ妙案を思い付いた
「そうだな、ならお礼は私にお前が名前を寄越す、これでいいだろ?」
鬼の子にしてみればなんてことのない提案に顔を綻ばす幼子
(全く、名前一つですぐ機嫌を治すとは…
人間は単純だな…お、今度は唸ってる。私の名前なんて何でもいいから早く決めてくれ)
体が重くなっているのを感じて早急な答えが欲しい鬼の子は幼子に半分睨みを利かせる
それに終始気づかなかった幼子の顔が再び綻ぶ
(決まったみたいだな…ようやく解放されるか)
目も虚ろになりはじめ、体が鉛のようになっている…
「聞かせろよ、お前が作った、私の、なま…」
最後まで言う前に狭まる視界、重くなる体…鬼の子の意識は暗い深淵の中へと堕ちていった…
ー鬼の名ー
「……こ…ちゃん……お…こ…お姉…ゃん……鬼子お姉ちゃん!」
声に導かれるように鬼の子は目を覚ました
まず目に入ったのが幼子
鬼の子を真上から覗きこんでいる
次に見えたのが茅葺き屋根、所々穴が空いている
「此処は?」鬼の子がしわがれた声で聞く
「あたしの家です
もう長くあたし以外に人が出入りしたことがないからぼろぼろだけど
お体の具合はどう?
鬼子お姉ちゃん体からいっぱい血が出てたから一時はどうなるかと思いました」
「あぁ…体を無理に遣ったからね…」言いながら起き上がる鬼の子
「寝てなきゃダメですよ!
すごい量の血だったんですよ!」
「私は鬼の子だ
心の臓が無くなるか首を跳ばされたりしない限りは死なない」いいつつ衣に手を伸ばす
衣には血糊がこびりついている…はずなのだが目立たないほど血の色は薄くなっている
「ここ二日間ほど物怪も現れなかったので着物のお洗濯をしておきました」
「そうか…」
自分の体を見回すと腹回りに薄い赤色のさらしが巻いてある
(どこかでこの色を見たことがあるような…たしかこの餓鬼の…)
幼子をよく見るとこの前見たときより服の裾が五寸ほど短くなっている
色合いもさらしと違わない
(こいつは全く…)思いつつ鬼の子は今までに味わったことのないくすぐったさの様なものを感じながら、目覚めたときから疑問に感じたことを口に出した
「鬼子、というのが私の名前か?」
「はい!日本鬼子!あなたのお名前です!」幼子は目を輝かせながら言った
「あたしを助けてくださった時、太陽の光の本に立っていた姿がきらびやかでしたので、日本」
「で、鬼の子だから鬼子…と?」
「はい!」
つく溜め息をさえ失った鬼の子は衣に身を包み戸に手をかける
ー幼子の願いー
「もう行ってしまうんですか?」
「もう用事はないからな、世話になった」
「あと一日「必要ない」裾を指が白くなるほど強く握って泣きそうになるのを耐えながら幼子が呟く
「お礼」
「ん?」
「看病したお礼」
「なっ、(なんという厚かましさ、此れが人間か!)」
「看病したお礼に…また遊びに来てください」
「あっ」鬼の子の息が詰まった
(あっ、あくまで恩返しだからな、仕方ない、うん仕方なくだ)
「…考えておこう」
それだけいって鬼の子は戸外へと飛び出した
(日本鬼子……か)
目には優しさと暖かさを、口元に笑みを称えながら…。