鬼子と愉快な仲間たち〜シリアス姉妹喧嘩編〜
日本には人の手の入っていない山が無数にある。
人とは多少違う存在の日本鬼子は居を構えているのは、そんな山々の一つだ。木々に囲まれた木造建築の粗末な家屋。いつもと変わらぬ風景。
いや、少し違うか。常に頭に着けている般若の面を少しずらし、木漏れ日の差し込む樹上に目をやった。じきに紅葉の季節が訪れる。
紅葉柄の着物を好んで着用している鬼子にとって、それは心から歓迎すべき変化であった。
日本は本当に良い国だと改めて思う。この国は紅葉に限らず、季節の変化が来る毎に、五感に心地良い刺激をもたらしてくれるから。
「ん?」
黒い屋根瓦の上には長身の男がいた。悠然と腰かけている。髪も衣服も白づくめ。その姿を見つけた途端、鬼子は猛烈な疲労感に見舞われた。
「何やってんのよ、卑猥鳥……」
鬼子はため息交じりに尋ねる。昼間から嫌な物を見てしまった。まあ夜見つけたら見つけたで、尚更嫌な気分になるのだが。
彼もまた鬼子と同じく人間ではない。一般的に妖怪と呼ばれる存在だった。
普段は二足歩行のニワトリの集合体のような外見なのに、今は珍しく人間の姿を取っている。
また夜這いだろうか。にしては日が高いが。
「客だ」
端正な顔をした卑猥鳥が、薄い唇を開けて言った。
なんであの形態の時は、二枚目を気取ろうとするのだろうと、常々思う。中身は名前通りの下品な奴なのに。
「客?」
そんなことが今まであっただろうか? 少なくとも記憶にある限りでは、ない。
卑猥鳥は無表情のまま答える。
「訂正する。君の妹君だ。この家を目指して近づいて来ている」
「妹……」
小日本か。自分と同じく、鬼を狩る使命を負った少女。
この国の鬼は全て滅ぼすと言って、この家を出て行った妹。会うのはいつ以来だろう。
「わざわざ教えに来るようなことなの?」
「一応な。ヤイカガシの旦那に聞いた話じゃ、俺を巡って口論になったって――」
台詞の途中で、鬼子は常に持ち歩いている薙刀を勢いよく投げつけた。加減はしていない。どうせ殺したって死ぬような連中ではないのだ。
が、風切り音を纏って飛んでいった鬼子の武器を、卑猥鳥は手であっさりと受け止めた。
「今度は本格的な喧嘩になるかもしれないぞ。見た目にそぐわず、大した激情家だからな。あの妹君も。また小言を言われるんじゃないか?」
足元に放られた薙刀と掴みながら、鬼子は苦々しく返す。
「あんたたちみたいな毒にも薬にもならない連中、退治する価値もないわよ」
「あぁ、最近人里では流行っているらしいな。そういう愛情表現。たしか『つんでれ』だったか」
今度は直接屋根の上に飛び乗って卑猥鳥に接近すると、鬼子は薙刀の一撃を放った。冷ややかな笑みと共に、
男が無数の小さな鳥へと姿を変え、周囲に散って行く。
「そういうわけで、俺たちはしばらく隠れるでヤンス! 乳の話もできないのは残念だろうが、
寂しい時は俺たちの顔を思い描いてくれでヤンス!!」
「誰が描くか!」
虚空に怒鳴りつけ、鬼子は家に入る。
妹。小日本。
口論の末に別れた彼女が戻ってくる。彼女は恐らく詰るだろう。使命を忘れて、
狐狸妖怪たちと共に茫漠とした暮らしを送っている自分を。
――和解することができるのだろうか。
茶の葉を出しながら、鬼子は暗欝な想像が自分の思考を支配していくのを実感していた。
軽やかな鈴の音が、木々の揺れる音や動物たちの生活音に混じって届いてきた。
それは徐々に近づいている。ひどく緊張しながらも、鬼子は下駄を履いて玄関の板戸を開けた。
汚れ一つない小柄な少女が、目の前に立っていた。
「お久しぶりです。お姉様」
どこか妖しげな微笑を浮かべ、妹、小日本が頭を下げた。
「久しぶり……あ、どうぞ」
一拍置いて、鬼子は妹を囲炉裏のある土間に通す。どこまでも古めかしい家なのだ。
とりあえず茶の入った湯呑みを出し、囲炉裏を挟んで妹と向かい合う。
彼女はあまり変わっていないようだった。幼さの色濃い可憐な容姿に、肩の長さで切り揃えられたおかっぱ頭。
相変わらず、神社の宮司が着るような神道衣を着用している。
鬼子のように頭の角は生えていないので、一見すると人間と変わりない。だから山を問題なく下れるのだ。
「変わりはありませんか、お姉様」
先に口を開いたのは小日本だった。
「ええ。何の変化もないと言ってもいいくらい、変わりないわ」
「そうですか」
茶を啜り、正座を崩さぬまま小日本は嘆息する。
「頻繁に妖怪が出入りしているようですね。それに生臭い魚の匂いもこびりついています」
生臭い匂いは、ヤイカガシの放っているものだろう。
「そう? 慣れちゃったのかしら。私には判らなかったわ。ごめんなさいね小日本。
あの馬鹿たち、勝手に人の家に出入りする癖があるの。よく言っておくから――」
「お姉様」
凛とした妹の声に、鬼子の弁解は遮られる。
「私が問題にしているのはそんなことではないのですよ。言わなくても判ってらっしゃるのでしょう」
小日本は続ける。
「今もこの家の周りをうろついている低俗な鳥共は、いつになったら駆除するのですか?」
「そのうちに、まとめて始末しようかと」
「先程も鳥の集合体と、お戯れになっていましたね。この山の麓で拝見しておりました。頭の角も伸びていないし、
瞳も赤くなっていなかったので、本気で始末する気があるようには見えなかったのですが」
彼女の能力は幅広い。あくまで物理法則に則った範囲で身体能力を発揮する鬼子と違い、小日本は透視や念力といった、
一種の神通力のような力を獲得しているためだ。
「ねえ、小日本」
自らの湯呑みに手を伸ばし、一口茶を飲んでから鬼子は言った。
「私は鬼よ。誰が見たって。何故狩らないの?」
「血を分けた姉ですもの。それにお姉様の心に邪念が宿っていないことは、私が一番良く理解しております」
彼女はどこまでも聖性に属しているのだ。だから自らの信念に迷いがない。
「例えば私の家の周りにいる卑猥鳥だって、狩る必要性がある程危険な存在には見えないんだけど」
返事がない。見ると小日本は、呆然とした表情を浮かべていた。
「お姉様。それは本気で仰っているのですか?」
「……ええ。腹の立つことだってあるし、鬱陶しいと感じることもしょっちゅうだけど、
私は彼らが近くにいるからって危機感を抱いたりしない。
はっきり言えば、楽しいとさえ感じる時だってある」
「……そうですか」
悲しげな声で小日本は呟いた。
「本当は、今日を境にお姉様とのわだかまりを解消しようと思っていたんです。――周りの雑魚を一掃して。でもそれも不可能なようですね」
見えない手が、鬼子の身体を正面から突き飛ばした。背中にぶつかった壁を易々と突き破り、
衝撃が訪れた次の瞬間には、屋外に放り出された。
「が、はっ……!」
地に横たわり、呼吸が出来ずに咳込んでいる鬼子に、声が投げられる。
「今日の仲直りは諦めます。とりあえず周りの悪鬼を狩ったら、御暇させていただきましょう」
先程と同じ体勢で湯呑みを傾けている妹が言った。
「そんなこと、させないわ」
囲炉裏の横に置き去りにしていたはずの薙刀が、鬼子の前まで転がってくる。
「鬼子タン、使ってくれい!」
壁に開いた大穴の向こうを見る。鰯の頭に手足の生えたような小さな妖怪が、囲炉裏の前、小日本を背にして叫んでいた。
ヤイカガシ。あいつが部屋に侵入して、薙刀を寄こしたらしい。
「馬鹿! こんな時に出てこないで!」
「目障りですよ」
小日本の視線が、ヤイカガシを一撫でした。同時に純白の炎がヤイカガシを包みこみ、跡形もなく消し去る。
「はぁ。この家はのべつ幕なしにこんな連中が出入りするのですか? だとしたら私、気が狂ってしまいそうです」
言葉とは裏腹に、小日本は酷薄な笑みを作っている。
「あなたは……!」
視界が赤味を帯びていく。頭もひどく痛む。角が伸びているのだろう。
「あら、お怒りのようですね。たまには姉妹喧嘩もいいでしょう。雨降って地固まる、に期待します」
小日本の周囲の床板が次々と剥がれて宙に浮き、鬼子に殺到してくる。普段とは段違いに鋭敏になった感覚と、
ヤイカガシのくれた薙刀を頼りに、全ての木板を叩き落とす。
「平素からそのぐらいの意気込みで鬼を狩って欲しいものです」
妹の言葉を無視して、鬼子は屋根の上に跳躍した。中央に立つと、裂帛の気合と共に屋根を踏み砕く。
家屋全体が大きく軋み、屋根の弱い部分が何箇所か落ちていく。正面から向かっていっても勝ち目がない。
真下にいた小日本に、鬼子は両手で構えた薙刀を突き立てようとした。
が、軽やかな金属音と共に刃は弾かれた。見えない壁が、鬼子の攻撃は阻まれた。
「あまり暴れると、後で家を修繕する時に苦労しますよ?」
相変わらず正座をしていた彼女の声が終わるのと同時に、両肩に強烈な負荷が掛かり、次の瞬間には左右の肩の骨が折れていた。
声にならない悲鳴が洩れる。
「っ……!」
薙刀が掌からこぼれ落ちた。
「ところでお姉様。本気で私に勝てると思っていらしたの? 私の方が遥かに強いのに」
眼前で微笑む妹に、鬼子は前蹴りを放った。これも見えない壁にぶつかり、到達しない。
「はぁ……まあいいでしょう。今楽にして――」
「――俺の嫁に何してんだよ」
いつの間にか、としか言いようのない素早さで、白づくめの男が妹の背に縋りついていた。
「え……?」
「聞こえなかったか? 俺の嫁に何をしてるんだ」
耳元で囁かれている妹の顔がみるみる青ざめていくのが、鬼子にははっきりと判った。
「卑猥、鳥……?」
鬼子の呟きに卑猥鳥が顔を上げる。
「何しに来たのよ、あんた……」
「未来の妹君に、挨拶しに来ただけだ」
身じろぎ一つ出来ない小日本を抱きすくめたまま、卑猥鳥が囁く。
「妹さん。さっきからやたら物騒なことを喚いているが、本気になった俺やヤイカガシにはまだ到底及ばない。
出直してこい。――あと、あまり鬼子を苛めないでくれないかな」
格が違う。気が抜けた途端に、意識が薄れていった。身体に受けた被害が大きすぎたのだ。数秒後に鬼子は倒れていた。
「きびきび動くでヤンス!」
布団の上で目を覚ますと、無数の卑猥鳥が家を直して回っていた。
「おー、鬼子タンが起きたぞ!」
そして死んだと思っていたヤイカガシが、ぴんぴんと自分の看病をしている。
「…………色々突っ込みたいことはあるけど、妹は……?」
「そのうちまた来るって言ってたでヤンス! 俺たちが追い払ったでヤンス!」
「ヤンス!」
「ヤンス!」
「ヤンス!」
無数の卑猥鳥自慢げに騒ぐ。
「いやあ、俺も死ぬかと思った。とにかく鬼子タンが無事で何よりだ!」
何であんたが無事なの、とヤイカガシに言いかけて、鬼子は再び布団に転がった。
「何か……ムキになってすごく損した気がする……」
その呟きを無視して、妖怪たちはいつも通りの騒々しさではしゃぎ回るのであった。