鬼子綺譚
ああそれ、その壜だ、そいつを取ってくれ。
よし飲むぞ。ほらほら遠慮するな。今日はいい日なんだから。
ん? 今日は何でそんなに上機嫌なのかって?
何だよ、俺が不機嫌だったら俺の部屋で酒盛りなんか出来ないんだからいいだろうが。
気味が悪い? 余計なお世話だ。
おっと、テレビは消さないでくれ。
この後に見る番組があるんだ。
次は通販番組だって? いいんだよ、それで。
で、何だったか。ああ、機嫌がいい理由か。
話してもいいんだが、少し長い話になるぞ。
そうか。じゃあまだ時間もあるし話すとするか。酒でも飲みながら。
戦争の話だ。全世界を巻き込んだ大戦さ。俺も一兵卒として参加していた、な。
ああ待て、言いたいことは分かるが、まぁ最後まで聴けって。
思い返すのも馬鹿馬鹿しくなるような理由で、あのときこの国は全世界に対して喧嘩を売った。
最初は案外調子が良かったんだが、途中から負けが込んで来て、この国にはどんどん余裕がなくなって来た。
で、開戦から半年くらい経った頃、とうとう俺も兵隊として動員されることになった。
正直嫌だったよ。御国のために命を捧げます、なんて欠片も思ってなかったからな、俺は。
勝ち目なんてないだろうとも思ってたさ。
だが、だからといって一部の連中みたいに反戦を叫んで徹底抗議するほどの気力もなかった。
だからまあ、素直に受け入れて、大陸に送られる船の中で、せいぜい死なないように巧く立ち回ろうと企んでたんだ。
結果から言えば巧く立ち回るなんて無理だった。
そりゃそうさ。ちょっと訓練を受けただけのにわか兵士にとって、死ぬか死なないかなんぞ単なる運だからな。
しかも俺の送られた戦線はよりにもよって激戦区だった。どうにもならんさ。
とはいえ隊長が優秀だったのか、俺の所属部隊は結構善戦してた。善戦してたんだが、ま、やっぱりそこは運ってヤツか。
大陸のそこそこ奥地まで侵攻して、一進一退の攻防を繰り返して、仲間の脳ミソが潰れたババロアに変わるのにも慣れたある日、俺達の部隊は現地のゲリラ部隊に奇襲されて潰走する羽目になった。
それで、転進――逃走中に俺は部隊から逸れちまってな。しかも悪いことに、奇襲を受けたときに右脚を撃たれてたのよ。
敵地のド真ん中で、独り立ち往生。ま、普通は死ぬしかないわな。敵に投降しても死ぬまで拷問されるのがオチだ。
あ? ジュネーブ条約? んなもん馬鹿正直に守るヤツはいねえよ。
敵さんからすりゃ、俺は気の良い親友を気の良かった死体に変えちまったクソ悪魔なんだからな。
でも俺は死ぬのは嫌だった。身勝手な言い分だが、あんだけ人をブチ殺しておいても、まだ死にたくはなかったんだよ。
だから脚を引き摺って必死に逃げた。見つかり難いように山の中を延々とな。
だが結局、数日で動けなくなって、木の陰に座り込んじまった。限界だった。
どうだろ、解るかね。動こうと思っても本当に指一本動かせないのさ。
観念して目を瞑ったよ。死にたくはなかったが、流石にどうにもならん。
んで、しばらくしたらすう、と意識が遠のいて行ってな。ああ、こいつが死か、と。
そして目を覚ますと、俺は布団の中にいた。
やっぱり夢だったのかって? いや違う。
おい、ここからだよ、話は。いいから聴け。
まず視界に入ったのは板葺きの屋根だった。
豪くだるかったんだが、何とか上半身を起こして周りを見渡して――混乱した。
全く見覚えのない場所だったからさ。
床には畳。脚の先には障子戸。あと上に神棚っぽいもんがあったな。
一言で言えば、そこは純和風の簡素な部屋だった。
俺は紺の襦袢を着ていた。
訳が分からなかったが、とりあえず起きようと思った。
途端、右脚に鋭い痛みが走って思わず呻いた。
布団を剥がして見てみると、右脚には包帯が巻いてあった。
そこでようやく今までのことを思い出した。
「あ、起きたんですね。大丈夫ですか?」
鈴を転がすような声が聞こえた。
顔を上げると、半分開いた障子から、可愛らしい少女が遠慮がちに顔を出していた。
少女と言っても年の頃は十七か十八くらいか。
切れ長の目に白磁のような肌。
藍色の着物に散った紅葉模様と、腰まで届く艶やかな黒髪が印象的だったな。
でもまあ、一番の特徴は彼女の頭から生えた二本の角だ。
そう、お前も今思った通り、昔話の『鬼』みたいな感じだ。
だが、取って食われるんじゃないかとか、そういうことは全然思わなかった。
何つーかこう、見惚れちまってな。間抜け面晒してその娘の顔を眺めてたんだ。
「あの……大丈夫ですか?」
俺の様子が変だったからだろう、彼女は心配そうな顔で近付いてきた。
俺は何とか、大丈夫ですとだけ返した。
たちまち彼女は破顔した。
「ああ、良かった。あ、お腹空いてますよね。ちょっと待ってて貰えますか?」
その笑顔は天上の甘露だった。
こいつはまさしく運命だと直感したね。
俗っぽい言い方をすりゃあ一目惚れってヤツだ。
何? ロリコン? 煩えな、知るか。
それでまあ、お粥を頂きながら色々と話をした。
彼女は、ひのもとおにこ、と名乗った。日本鬼子。
『ひのもと』はこの国の名前と同じ漢字、『おに』は桃太郎の悪役、『こ』は子供の子、な。
変な名前? まぁ俺もそう思ったが、そこは惚れた弱みで、美しい名前ですねと。
この、気持ち悪いって言うな、てめえ。
倒れてた俺を見付けたのは、鬼子が飼ってる犬だったそうだ。
犬っつっても何かこう、狼みたいなヤツでな。狩りに使うんだ。
この村では犬を使えるのが一人前の証だとか、そんなことを鬼子は言ってた。
俺はどうやら丸四日近く寝てたらしい。その間、鬼子は俺の世話をしてくれてた訳だ。
そういえば俺の服はと訊いたら、何を思い出したのか鬼子が顔を真っ赤して俯いてな。うん、可愛かった。
何だよ、その呆れた顔をやめろ。
角に関しては、触れちゃいけない気がして何も言わなかった。
で、だ。
その村が普通じゃねえってのはすぐに判ったよ。何せ村人は皆、頭の上に角を生やしていたんだからな。
考えてみりゃ、大陸の奥地に日本語が通じる和風の集落があることだっておかしい。
でも驚いたのは最初だけだ。人間何でも慣れるもんで、三日も経たない内に特に気にならなくなってた。
村人は皆気さくでいい人達だったしな。ああ、本当にいい村だったよ。帰りたくなくなるくらいに。
一週間くらいで普通に歩ける程度には脚が良くなった。
それで、家で出来る手伝いくらいはしようと鬼子に申し出た。
薪割りとか、料理とか、あと犬の世話とかな。
鬼子は止めたが、タダ飯食らってるだけじゃ申し訳ないからさ。
あとは、まぁ、その、ちょっとはいい格好しようとかそんな下心もあった訳だが。
いいんだよ、細かいことは。
鬼子も最後には折れてくれた。仕方ありませんね、なんて溜息を吐いて。
その仕草も素敵だったな。
ああ、鬼子は本当に魅力的だった。
何で『魅』という文字の中には『鬼』が入っているのか、その理由が解ったよ。
は? いや、手は出さなかった。
鬼子を眺めてるだけで満足だったんだよ。幸せだったんだよ。
ヘタレ? 黙れこの野郎。
そんなこんなで、朝が来て、昼が来て、夜が来て、また朝が来て。緩々と時間が流れていった。
何があった訳じゃないが、楽しかったな。
それでまあ、どのくらい経ったのか正確には数えちゃいなかったが、多分拾われてから一ヶ月ちょっとかね。
今後のことを真面目に考えたのさ。
脚も治ったし、さてどうするか、とな。
俺としてはその村でそのまま暮らしたかった。
だがな、戦時中で、しかもそこは敵の領土な訳だ。良く考えりゃ、俺の存在が敵にバレたら色々とヤバい。
その村が訳ありなのは明らかだしな。
悩んだが、命の恩人に迷惑は掛けられん。ましてや惚れた女を悲しませるなんてのは言語道断だ。
そんな訳で、夜中にこっそり村を脱け出すことにした。
とにかく味方の前線まで辿り着けば何とかなると思ってな。
夜、月明かりを頼りに忍び足で廊下に出ると、そこに鬼子がいた。
口から心臓が飛び出すかと思ったな、あのときは。
「行くんですか?」
鬼子は哀しい眼で俺を見た。
責めるでもなく、憤るでもなく、ただただ哀しい眼だった。
二つの角が月光に煌いていた。着物の紅葉が血のように紅かった。
初めて――そのとき初めて、少しだけ恐怖を感じた。
同時に、身を焦がすような愛おしさも。
いつか必ず戻る。
俺は何とか言葉を絞り出した。
「いえ……忘れて下さい。きっと、その方がいいんです」
忘れないよ。
小さくそれだけ告げて、後は振り返らず村を出た。
そしてひたすら川に沿って山を降りた。
二時間か三時間か歩いたところで、麓の街の光が見えた。
呆然としたね。
山の麓にあったのは、よく知った街並みだった。
何処って、今俺達のいるこの街さ。
そんなはずはないって? そうだよな、俺もそう考えた。
でも山を降りてみたら、確かにこの街だったのさ。
しかも戦争のせの字も見当たらない平和な街並みだ。
一直線にこのアパートに帰った。
ドアの郵便受けに突っ込まれてた新聞は三日分だった。
最新の新聞の日付は2007年9月5日。今から約三年前。戦争とは無縁の時代だ。
タイムスリップ。それ以外に説明のしようはないだろうよ。
時間だけじゃなく空間も跳び越えたみたいだがな。
そういや、元々ここに住んでたはずの俺は何処へ行ったんだろうな。
同じ人間は同じ時代に複数存在出来ないってのがSFなんかじゃよくある設定だが。
まぁどうでもいいか。
ちなみに俺の降りて来た山には何度も行ってみたが、結局あの村は見つからなかった。そうだろうとは思ってたさ。
『マヨヒガ』だとか『桃源郷』だとかの隠れ里伝説でも、いざ探しに向かうと見つからないのはお約束だわな。
だがな、俺は諦めた訳じゃあない。つまりだ、
もう一度同じことをすれば、また鬼子に逢えるかもしれない。
何だよおい。そんな幽霊でも見るような目をするなよ。
ああ、そうそう。俺の機嫌がいい理由だったな。
テレビを見ろ。
開戦時刻は2010年10月30日。記憶が正しければ日付の変わった直後。
そろそろだ。
怪しい健康器具の通販番組がブツリと中断される。
化粧の整わないニュースキャスターが蒼い顔で席に着く。
開戦を伝える緊急特番が始まる。