ID:y8rEuwql氏の無題作品
深い深いまどろみの中、木々がさぁーっとざわめき、鬼子はこれが夢なんだと知覚した。
ああ、またこの夢か、と。
彼女が葉の匂いを感じると、ややあって別の女性がささやいた。
『鬼子、これからあなたは一人で生きなければなりません』
その言葉の意味がわかると、既に鬼子の体は幼き頃へと戻っていた。鬼子が言う。
『でも、お母様。わたしはまだ弱く、妖怪の一人もつかまえれません』
『いいえ、あなたはとても強い子。それはわたしが一番よく知っています』
『ですが――』
『考えるのです、あなたが、何故わたしから生まれたのかを……。なぜ、あなたが妖怪と戦わなければならないのかを』
『わかりません、お母様。わたしは――』
短く目を閉じ、思い出した母との記憶は、暖かいものばかりでは無かった。母と共に幾多の妖怪、鬼、物の怪と戦い、命が散り行くのをその目で見てきた彼女には、それが酷く残酷なことに見えた。
母は、決して情けをかけることはなかった。振り上げた刃を振り下ろすのに、ためらったことなど、一度も。
『何故?』
鬼子はこれが理解できない。『誰かを守れる力』、それさえあれば良いと考えるのが、彼女だからだろう。
母が言う。
『考えるのです。鬼子、わたしの子――。なぜ、あなたが、『わたしから』生まれたのかを……』
おにのこ鬼子
かはっと息を吐き、藁と枯れ枝でできた見慣れた天井を見上げると、ややあって彼女は「やっぱり」とつぶやいた。
十月も終わりそうなこの時期には想像できないほど冷たい風がそっと彼女の白い頬をなで、ぶるっと身を振るわせた。
ふと外を見ると、まだ完全に日が落ちきっていない。
少し早起きしてしまった、というのが鬼子の最初の感想である。
木の葉のベッドからのそのそと起き上がり、つっかえ棒で支えられていた木の窓をぱたんと下ろす。すると
「おはよう、鬼子さん」
年端も行かぬ少女の声に、鬼子ははっと振り返り、ほんの一瞬己の反応の鈍さを呪ったが、すぐにそれは杞憂だと気づかされた。
子ネズミほどの大きさしかない一人の少女が、鬼子のその様子にくすくすと小さな笑みをこぼし、じっと見据えた。
「さ、今日も行きましょう!」
屈託の無い笑みでそういう彼女に、鬼子はわずかな後悔の念を感じずにはいられない。
――あれは、数日前のことだ。小妖怪たちが集まり、何かを新しいおもちゃを見つけた様子でわいわいと、これから始まるであろう夜の宴の準備を始めているところを彼女は見かけた。
だがそれは良い。格の低い妖怪たちが数をそろえようと、せいぜい夜道で人を驚かすことで精一杯なのだから、それは鬼子の知るところでは無いというのが彼女の考えだからだ。
だが、いつもと少し違ったのは、彼らの視線の先にいたものが、傷つき倒れた『人』であったこと、そしてそれが、見たことも無いほどに小さかったことだろう。
正しく言えば、助けた、というよりも興味を持った、と言った方が正しい。結局それが運のツキだったわけだが……。
「さ、どうしたんです? あなたは選ばれたんです、今日も世のため人のため、正義をなすのです!」
鬼の子に何を言うか、とも感じる彼女だが、小さな少女が『母の知り合い』だと言った以上、『……はい、わかりました』と答えてしまうのも彼女ゆえか。
「うむうむ。では不肖ながらこの小日本、全力でサポートいたしますゆえ!」
満足そうにうなずくと、小日本という変わった名の小さな少女が、ひょいと鬼子の肩に飛び乗った。
「さあ、いざ!」
概ね、この日本には大きく分けて三つの種族がひしめいている。まず一つは人間だ。
かれらはこちら側には足を踏み入れることができない、いわゆる弱者だというものもいるが、鬼子は違うと感じていた。
彼らの存在は妖怪たちにとって滑稽であったが、同時に生きがいの一つでもあるのだ。
先ほどの小妖怪などは、人を驚かす、いたずらをするために日夜不毛な努力を続けているのだから、彼らに人を馬鹿にできる道理などは無い。
二つ目が、我々妖怪と呼ばれるものだ。といってもそれは広義の意味であり、厳密に言えば鬼子は妖怪では無く鬼である。
あえていうなら、妖怪類鬼種、と言うべきか。その中でも鬼子は稀な存在であり、きわめて人に近い姿をしているので、ひょっとしたら何分の一か人の血も混ざっているのかもしれない。
三つ目が、神と呼ばれるものたちだ。人の言う神と、妖怪の言う神とは大きな食い違いがある。
それは、神は絶対では無いということだ。人は『境界』を越えてこちら側に踏み込むことができないから、神、妖怪に恐れを感じ、時に崇拝してきたが、妖怪にとっては違う。
彼ら神は、『こちら側』にいる、一つの種族でしかなかった。更に言えば、人間の信仰が無ければ生きることのできない神は、妖怪にとっては恰好の的でしかない。
とはいえ、神は不要かといえばそうではない。人の信仰によって力を増し、それぞれに宿る神はその地を実りある大地へと変えてきたのだから。
だが、ひとたび妖怪に襲われれば、弱き神々に身を守る術はない。そして妖怪に襲われた結果、神々は悪しき存在となり、人の世に明確な脅威をもたらすのだ。
外のとある国では、堕天だとか言うらしいが、鬼子にはよくわからなかった。
そして、そうさせないために鬼子――というか小日本がいるらしい。
「あの、それはわかりましたが、今日はどこへ行くんでしょうか……」
おずおずと鬼子が言うと、小日本はどこぞのお笑い芸人のように大げさな身振りでしまったとばかりに自分の頭を軽くはたき、「おっと、そうでした」と罰が悪そうに笑みをこぼす。
「今日は静岡まで飛びます!」
「えっ……」
「お茶が美味しいところですが、その奥の奥、山の奥に祭られている、稲荷神の一つです! さあっ!」
と言われても、鬼子には便利な移動妖怪やらそういったものはなく、毎回徒歩や自転車、電車を使うのだが、それがまた一苦労なのだ。
基本的に彼ら鬼や妖怪は、夜に活動し昼は寝ているものなのだが、最近に人間は夜でも活動しているし、
下手に動いて正体がばれれば、すぐさまどこぞのテレビ番組が霊能力者などを連れ、嬉々として襲ってくるだろう。
姿は消せても、彼女のような高位の種族は完全に実体を無くすことはできず、物理的に――これは鬼子の力不足も原因なのだが――触れられてしまう。
そして彼女の住む東京から自転車で静岡は遠すぎるし、新幹線ではお金がかかりすぎる。バスは一度地獄のような経験をしたため選択肢から除外している。
「移動手段は高速バスの券を買っておきました! 清水ライナーで行きます!」
………………。
「あの、わたし、今日具合が悪いかなーって……」
「あっはっは、ご冗談を! あの人の一人娘が病になどかかるはずがございません!」
「……はあ」
基本的に押しに弱いのは、出会って数日の少女に見抜かれているらしい。
仕方ないかな、と息をつき、鬼子は枯れ枝の家を後にするのだった。