ID:J/vgaqCu氏の無題作品
島根県。出雲市在住の男子高校生はその夜、妙なモノを見た。
自分以外に誰もいない、夜の海水浴場。たまに非行少年、あるいは少女がうろついているときは諦めるが、
気分が沈んだ時にはここで腰を下ろして、ぼんやりと海を眺めるのが少年の趣味だった。
雨でも雪でもここには来るつもりだったが、幸い今日は良い天気だった。月光に照らされた水面は、絶えず波音と共に揺れている。
と――
「……?」
大した意味などないが、手庇を作っていた。不自然な飛沫が、遥か遠くに確認できたのだ。
それが近付くにつれて、心地よい波の音に雑音が混じり始める。
海水浴客――11月も目前の真夜中に? ありえない。なら酒に酔った者が遊び半分に海に入って、死に物狂いで浜を目指して泳いでいるのだろうか。
仮にそうだとしても、助ける気にも嘲笑する気にもならない。何しろ今日は、想いを寄せていた女子に彼氏がいたことが発覚した日なのだ。
別のクラスの同級生。去年同じクラスだったその男子の顔が頭から離れない。冷たい海風に体温と、堂々巡りを続けている思考を奪い去って欲しい。
何にせよ、この時間は誰にも邪魔されたくない。
頭の醒めた部分が、海から接近してくる物体を観察する。妙なシルエットだ。犬のようだ。 背中に何か乗せており、毛並みは白い。にしても巨大だ。
狼と表現した方が的確かもしれない。
何分経っただろう。浜辺に打ち上げられるようにして、犬は久村海水浴場に巨躯を横たえた。
その上に跨っていた人間――紅葉柄の着物を着た若い女は、長いストレートの黒髪を揺らしながら砂浜に降り立ち、犬の頭を撫で始めた。
「お疲れ様。日狗」
舌を出してダレているペットの名前らしき単語を女は口にしたが、聞き取れなかった。日本ではまず使わないような音が混じっている。リーゴウ、だろうか。
怪物じみた大きさの犬から、和装の少女に視線を移す。紐を通した般若の面を首に掛けている。手には薙刀。祭りの会場にいたら、さして違和感はないかもしれない。
遠泳を続けてきた犬を労う少女の面は、美人と呼んで差し支えないだろう。細い曲線を描く左右の眉の上あたりに、腫れもののような膨らみが二つあるのが玉に傷だ。
逃げるわけでも近づくわけでもなく、少年はその一人と一匹を眺めていた。女の額の出来物は、角のようにも見えるな、と思ったところで、女と視線がぶつかった。
「あ……」
間の抜けた声に聞こえた。隠れていたわけでもないのに、彼女はこちらに気付かなかったらしい。冷たい海を渡り終え、周囲に気を配る余裕がなかったのかもしれない。
「つかぬことを伺いますが、ここはどこでしょうか」
か細い声だ。夜の闇と同じほど黒い少女の瞳を見返しながら、少年は答えた。
「久村海岸だけど」
「日本ですか?」
格好と同じく、質問の内容もぶっ飛んでいる。あまり関わり合いにならない方がいい人種かもしれない。
「そうだよ。ちなみに久村海岸は島根県出雲市内にある海水浴場」
「島根……」
安堵したように溜息をついた女が、巨大な犬に声を掛ける。
「よかった日狗、私たち、ちゃんと日本に着いたみたい」
「どこから来たんだよ、あんたら」
投げやりな声で問う。
「私たちですか? 中国です」
「おいおい……冗談にしても――」
言葉を継ごうとしたところで、女が深々と頭を下げる。
「申し遅れました。私、日本鬼子と申します。中国から参りました」
「ヒノモトオニコさん。あんた何しに来たんだよ」
「何をしに……」
虚空を見つめてしばし黙考した後、鬼子と名乗った女は言う。
「日中関係をより良くするため、でしょうか。親善大使とか、交歓留学生とか、そんな感じかもしれません」
また漠然とした目的で訪日したものだ。
「その割には物騒な物を持ってるけど」
月の光で煌めいている薙刀の白刃を見ながら、少年は言った。
「あ、誤解しないで下さい。これはですね――」
バトントワリングのようにして薙刀を回転させながら鬼子は続けた。それまでと打って変わった、冷たい声音で。
「人の悪しき心――鬼を倒すための道具です」
「……へえ」
浜辺から腰を上げ、ジーンズの尻に付いた砂を叩いて落としながら、少年は唇の端を持ち上げた。
ひどく暗い、それでいて愉快な気分になってきていた。
薄い雲が月に掛かり、闇が濃くなる。
「じゃあ俺が、この国であんたがあった鬼の第一号――になるのかな」
「残念ながら」
鬼子の傍らの犬が、獰猛な唸り声を発している。
「私一人で大丈夫。だからあなたは休んでて」
視線をこちらに固定したまま、少女は犬に語りかけた。
薙刀の切っ先をこちらに向けた鬼子が、地を蹴って突進してくる。
十メートル以上開いていた距離を、一瞬で詰めてきた。大した瞬発力だが、初撃の突きを避けるのは容易かった。頭の位置をずらすだけでいい。
続けて首を刎ねる為に放たれた横薙ぎはかなり鋭かった。突きは様子見で、本命はこちららしい。油断した。舌打ちしつつ、後ろに跳躍してやり過ごす。
が、足がわずかに遅れた。更に速度の増した、鬼子の三度目の斬撃はそれを見逃さない。着地した時には、既に左足は身体から切断されていた。
「あらら」
右足一本でさらに距離を取りながら、少年は呟いた。
出血も痛みもない。砂上に置き去りにされた自分の左足は、深紅の光の粒子になって散っていった。
少女の着物の柄と同じ、紅葉の色にひどく似た色だ。
悪夢だ。なぜこんな目に遭っているのだろう。あの女は俺のことを鬼と言っていた。いや、自分で名乗ったのか?
数秒前の会話すら思い出せない。思考がほとんど停止している。
「他人を妬む気持ちに取り憑かれても、いいことなんてありませんよ」
気付けば鬼子の瞳には、鮮やかな赤い色が差し込んでいた。どちらが鬼なのか、判ったものではない。
「ああ、そうか」
そう言われて、少年はようやく自覚する。俺はあの男を憎んでいたのか。
胸を衝かれたような衝撃があった。鬼子の先に広がる海へ漂わせていた視線を、自分の身体に向ける。
胸の中心には、薙刀の刃が根元まで突き刺さっている。
「おい。これって投げて使ったりするもんなのか?」
「生憎と我流なので、詳しいことは……」
鋭くなった目付きを一瞬で元に戻した鬼子は、語尾を濁した。瞳の色も黒に戻っている。
「くそ……今なら誰と喧嘩しても勝てそうな気分だったのにな。やたら身体が軽かったし」
刃の刺さった胸の中心から、緋色の輝きが零れ始める。
「辛いことも多いと思いますけど、頑張って下さいね」
「他人事だと思って、適当に励ましやがって……」
「すいません」
律儀に頭を下げている。
「まあいいや。――有難う。少しだけ気が楽になった」
「じゃあ、心おきなく萌え散って下さい」
少女の控えめな笑顔を最後に、視界が赤一色に染まっていった。
うとうとしていたのだろうか。喉の痛みで目を覚ます。鼻が詰まっているし、頭も痛い。間違いなく風邪だ。
間抜けだ、と思いつつ、得をした気分にもなっていた。とても良い夢を見ていた気がする。
内容はほとんど思い出せない。
ただ――
白い獣を駆る、和服の美しい少女が登場することだけは鮮明に憶えていた。