ID:F3cxNpuR氏の無題作品
人里離れた深山幽谷に、ひっそりと存在する日本家屋がある。
紅葉の散りばめられた庭園に、齢を経た威容と来るものを拒まぬ気安さの同居した家で、よく手入れがされているようである。
見れば、軒先には女性の影が。
紅葉の柄の着物に、絹糸のような黒髪を流して立つ姿には見た者に佳人を思わせるが、奇異な点が二つ。
頭の横につけられた無骨な般若の面と―――頭よりチラリと延びる、二本の角である。
箒をたずさえ掃く姿は和風の装いと、その健康的で清楚な容姿により実に魅力的である。
だが、だからこそその異常には目が惹かれるだろう。
何の事はない、人里離れれば人外化生の巣窟というのが世の理。
それは今も昔も変わりはせず、ただそれを人が見れるか見れないかというだけの話。
そのような場で立派な家屋を保持しているならば、それはやはり神か、天狗か、あるいは―――鬼か。
ならば角があるなら鬼であろう。 般若も元は嫉妬や恨みの篭る女性の鬼面。
ここまで符号しているのであれば、鬼と見做すのに否はない。
「今月の目標、三十鬼か―――幾ら代表になってしまったとはいえ、毎日というのは些か多すぎる」
第三百九十二回、日本 鬼子(ひのもと おにこ)代表決定の儀において選ばれた為か溜息交じりのようである。
日本 鬼子代表決定の儀とは、平たく言えばなんとなく代表が代表を辞めたくなった時に、十一月一日を境として、全国の鬼娘を招聘して行われる首魁決めである。
首魁を決めるとはいえ、そこはやはり鬼の生業。 ただ決めるのは強さのみ。
根は真面目だがそこまで熱意の無い当代の鬼子は、そりゃあ初めは適当に手を抜くか、あるいは誰かに負ければいいだろうと思っていた。
だが首魁決めは荒ぶる御魂を呼び起こす一対一の素手同士の戦い。 強靭で負けず嫌いな鬼たちには骨の十本や二十本程度は愛嬌扱いで、勝敗条件は殺しは御法度の気絶のみ。
参った、なんてのは周りが興醒めするという理由と、あってもどうせ無駄なためそんなものは無い。
殴られれば闘争本能が掻き立てられ、頭の角は鬼の力を受けて天をつらぬき、美麗なかんばせは美しくも雄雄しい鬼へと変わる。
その結果、儀特有の熱気に当てられ、あれよあれよと勝ち進め、気付けば当代最強。 そして日本 鬼子の名を冠することになったのだ。
「酒を飲んで儀の熱気に当てられれば、誰も手加減など出来はしない、そして下手な小細工も意味を成さずに、運と力だけの純粋勝負―――してやられたか」
酒が好きで宴が好きな鬼には分かっていてもやめられない、止まれない。 併せて言えば、表に出さずとも鬼は自信家だ。
自分には我慢が出来ない、などと考えて大規模な祭りを休むなど、禁酒を誓うぐらいには無理なこと。
そんなもんだから、千年以上続くこの儀も毎年行われるのではなく、些事を面倒臭がる鬼が我慢できなくなる一年から四、五年を目処に行われる。
最も長かったのが……凡そ千年程前に、紅葉という名を持つ鬼が三十三年ほど首魁を務めたのが記録である。
それから代々、首魁となったものはその名前に肖って、この紅葉に囲まれた家を使っているのである。
さて、そんな彼女らが何をしているのかといえば、人の心に巣食う「鬼」退治である。
勿論それだけではなく、他種族との縄張り争いや抗争の調停、あるいはそのまま第三勢力となることもあるが。 因みにその場合大抵勝つ。
鬼の「鬼」退治など異なことをと思うかもしれない。
だが退治されるのは彼女らではない。
何故なら人の心に巣食う鬼は無数にいる。 全ての人間の心の裡には、鬼がいるのだ。
人はその鬼と心の裡で無意識に争いながら生きているのだが―――人は何かの拍子に、醜悪な鬼になる。
姿が変わる者もいれば、姿の変わらぬまま、内面だけが変容した鬼もいる。
彼女らにしてみればふざけた話だ。
力強く、豪放磊落。 殊更に人に敵対したい訳でもなく、そもそも性根を腐らせることを疎んじる彼女らとその鬼たちは余りに違う。
だのに弱くも面白く愚かな人の子らは、その鬼の所業を見て彼女らに敵対する。
過去、それが故に彼女らの住まう島は落とされ、流れ着いてきただけの金銀財宝などどうでもいいが、味が随一だった酒蔵が壊されたのは彼女らをして涙を流させたのだ。
それから彼女らは鬼と化した人、鬼人を狩るようになった。
狩るとはいえ殺すとは限らない。 たしかに殺さねばならぬ、肉体すらも変容した者もいるのだが。
だがその必要の無い者ならば、彼女らの力を受けた得物を用いれば心の中の鬼を穿ち殴り捻り潰すことが出来る。
残念ながらその人間にも多大な衝撃が与えられるが、そこまで勘案してやる必要が無いというか、結局は自分の心なのだろうと容赦なんてものはない。
正確には考えが鬼基準なだけで、これでも手加減はしているのだ。 強靭な上に、両手両足が複雑骨折しようとも酒飲んで寝れば明日には治るような我が身と比較した話ではあるが。
安心して欲しい、あんまり死人は出ていない。
どうやら、日課の掃除を終わらせ、代々「日本 鬼子」受け継がれてきた薙刀を担いできているようだ。
「さて、では初めての稼業と行くか、小日本(こひのもと)」
「はい、鬼気の高まっている近辺に『繋げ』ておきました。 いつでも」
小日本(こひのもと)と呼ばれた着物の童女は言うや否や、袖から伸びた赤い糸を操り、虚空に赤い円を描いていく。 円内の虚空には、違う景色が朧気に。
赤い糸は距離無く想いも繋ぐ道しるべ。 サダメもエニシもミチすらも、端さえあれば何処であろうと距離は無し。
人の世では想いは現世の距離も心の距離も、あればあるだけ遠ざかるも、化生の身には意味は無し。
よく見れば、小日本の着物の赤い糸の刺繍もスルスルと着物の上を動いている。 どうやら糸は虚空から出しているのではなく、着物を利用しているようである。
「よし、では行くか。 鬼の「鬼」退治、「日本鬼子」が首魁、紅姫改め日本鬼子。 芥どもは燃え散らす!」
「燃やしすぎないで下さいね、先代では文字通り火消しに苦労しましたので」
「彼奴らが下手に抗わねばな」
「……大丈夫です、代々の首魁のやり過ぎを補佐してきましたから」
心を繋ぐ小日本は、他者の心の影響を受けやすい。 つまり人の鬼気は毒なのだ。
人の鬼は他の人をも鬼とする。 ならば、それを防ごうとするのも自明の理。
今日も今日とて彼女らは、人の為などではなく己の為に、鬼退治をしているようです。
続けられない
小日本の糸で作った赤い円内の虚空を抜ければ、そこは街を見下ろす夕暮れの丘。 周囲に人気の無い場所であった。
「着いた、か。 小日本、鬼気を持つ人間はここらにいるのじゃな?」
「はい、この辺りに鬼気の残滓が漂っているようですので……おそらく、今も」
小日本は一度赴いた場所へと糸の端を残し、そこを我が身に『繋げ』ねば転移は使えない。
長い年月の成果で大体の要所は押さえてあるが、 その特性上、細かい位置の調整などは出来ないのである。
「さて、取りあえずまずは腹を満たそうか。 腹が減っては戦が出来ぬというし」
「……お食事、取らなかったので?」
「昨日の最終戦での戦いで胃がやられておったからの、あまり食えなんだ。」
「その割には嬉しそうですが」
「なあに、鬼退治も毎日だと面倒じゃがな、その際に人里の飯をたらふく食せれば良いとも思うてな。 銭はあるのじゃろ?」
「あるにはありますが、駄目です。 私の移動費ですので。 最近は交通機関でどこにでも行けるのは有り難いですが、その分銭が足らないのです」
「吝嗇なことを言うでない、最初の景気付けにじゃな、パーッと……」
「鬼の食事に合わせたら幾ら銭が飛ぶと思ってるんですか。 大体、先代も辞める時に似たようなことを言っていたので余分な銭は無いです」
「な、なんと……非道じゃ、非道すぎる」
「戯けたことはお一人で存分に……と言ってもいいですが、これでも代々の補佐を務めてますので。 では私についてきて下さい」
言うや否や、歩を進める小日本。 尤も、歩幅の差で鬼子にすぐさま追いつかれるのだが。
泣きそうな顔で、しかし小日本の歩調に併せて足を進める鬼子に苦笑しながら、道行く男性が憂いを帯びたように見える鬼子の横顔に見惚れるのを感知する小日本。
鬼気も含め色々と察知する、何かと感受性の高い特性をこの小日本は併せ持つので、見なくとも周囲の状況ぐらいは把握している。
(さて、たしかここの辺りではあちらでしたね……大体、空腹かどうか、なんてことぐらい私が分からない筈無いじゃないですか。
本当、単純なんですから)
だがだからこそ彼女らは愛おしい。 決して頭が悪いという意味では無いが、鬼の子らは単純明快で心地良い心を持っている。
他種族を愛する象徴とも言える小日本。 この小日本は縁結びの神と人から産まれたためか、『繋ぐ』力を発現している。
多種多様な恋の元に生まれ、あるいは日ノ本に生まれたモノらがさらに生んだという意味を込められたのが「小日本」の名の由来。
つまりは神、鬼、妖、人。 それぞれがそれぞれと結ばれた混血を「小日本」と総称して言われるのだ。
とはいえ、彼女らはそうして生まれたからといって、別に無理にそれらの仲を取り持とうとは思わない。 それは当人らが心から望まねば仮初となり、意味が無いから。
しかし、誤解が故に争い憎むのは違うと彼女らは、異なる力により成長を阻害された矮躯を動かすのだ。
「さあ、ここです。 こちらなら満足行くまで食べられます」
そうして着いたのは一軒の店。
普通の店のようだが、唯一つ違うのはお品書きに書かれているとある一文。
『わんこそば 8分で300杯以上食べたら無料』
そんな小日本の懐には、「大食いグルメマップ〜食べ放題・大食いの店全国版〜」なる本が覗いていた。
「な、七分経過……そこまで!
400杯目……凄い、もしかして日本記録じゃないですか?」
女性店員の出したほうじ茶を啜りながら、満足そうに笑顔を振りまくのは日本鬼子。 だが正面からその顔を見ようとしても、うず高く積み上げられた椀に隠れて見ること能わず。
店にいた客はこぞって観客へと転じている中、鬼子の横で落ち着いた様子でそばを食べているのは小日本。 勿論、こちらは普通に頼んでいたものである。
人外が何の抵抗も無く受け入れられてることに疑念を持つ人もいるかもしれないが、そこはやはり人外の身。
般若の面や鬼の角、そして小日本の服装などにも、彼女らが力を強く出さない限りは普通の人間の意識に留まらないのだ。
神や妖怪が歴史に記されていた頃には人の認識がそれらを捉えていたのだが、人に忘れ去られた今では余程のことが無ければ露見しない。
それが良かったのか悪かったのか、いまいち誰にも答えは出せない。
「いや、馳走になった。 小日本も、丁度食べ終わったようじゃな?」
「はい、ごちそうさまです。 では店員さん、私の分のおあいそを……」
「ああ、そういえば……いや、ここまで綺麗な人がうちのをここまで食べてくれたんだ、見物料としてお連れの子の分ぐらいはおまけさせてくれ」
「ですが……」
「アハハ、しっかりしたお嬢ちゃんだ。 いいからいいから、将来の美人さんにおじさんからプレゼントってことで済ましてくれ」
「ほれ、いくぞ小日本。 折角のご厚意、甘えねば悪かろう?」
(私の方が年上なので複雑なんです! ふう、こればかりは慣れませんね……)
「ではお言葉に甘えて。 有難う、御座います」
「どう致しまして、どうぞ今後とももご贔屓に」
店を後にする二人。 その姿は和の装いも併せて姉妹のようで、店にいる間に夜へと変じた町へ溶けるように消えていった。
腹の膨れた日本鬼子は満足そうに、そして小日本も顔には出ないが雰囲気としては満足そうに。
鬼子らは自分たちの為。 だが小日本には多少、人を助けたい気持ちもあるのである。 人の善性もまた心地良いのだから。
「さて、では参りましょうか……大禍時(おうまがどき)を過ぎれば常夜の世界。 人の光が強くなろうとも、それは何時でも変わりません」
「だからこそ、より人の鬼気も分かりやすくなるのじゃったな」
「はい。 さて、それでは……」
懐から取り出すは糸が通された鈴。 端を掴んで空へ放れば、中空でピタリと止まり、リーーーーーーーン、と鈴特有の音が鳴動する。
人の身では聞けぬ音。 人の世では鳴らぬ音。 そしてその音が聞こえるは人外のみ。
『繋ぐ』のに糸を用いるのは、それが最も強固だから。 媒体が何であれ、世界は何かで『繋が』っている。 最も強固なのが概念を併せ持った赤い糸なだけで。
その気になれば空気だろうと音だろうと指輪だろうと、何でも『繋が』ってはいるのだ。
今の使い方はその応用。 己の力を鈴の音に乗せ、聞こえた者に一瞬のみ『繋ぐ』ことで位置を把握するのである。
「反応、あり。 捉えました! この“気”は……少し、急ぎましょう」
中空の鈴を手繰り寄せ、懐に入れながら答える。
「む? もしや鬼人へと変じておるのか?」
「いえ、姿までは……ですが、気になることがありますので」
「そうか……では、ちと急ぐぞ。 案内は頼む」
「はい、あちらの方角に……」
ガシッ
「ゑ?」
方角を指差し、いざ歩を進めようとすればいつの間にか膝下に手をやられ、抱きかかえられていた。
俗に言う、お姫様だっこである。 重ねていうがお姫様だっこである。 因みに胸は当たっている。
抱きかかえられた際にほのかに鬼子から香る匂いに気付き、しっかりと、それでいて痛くならないぐらいの適度な抱き加減に関心し、そんなあさっての方向に思考を預けたせいで反応が遅れる。
「キャッ」
ダンッ! という音と共に地上から離れ、次いで家々の上を跳び跳ねる鬼子。 何せ山中では紆余曲折と進むよりも木々の先端を跳び続けた方が早い。
今回も単純にそう判断しただけのこと。
小日本は『繋ぐ』から派生する数多の能力と引き換えとでも言うかのように、肉体的素養については外見相応(鬼基準なので実際には青年程度はある)と見て、抱きかかえるという選択を行っただけである。
人外の身ゆえ家々の屋根では足音も衝撃すらも発さずに跳んでいるのだが……実はこれ、迷うと直進する鬼が木々を粉砕するのは困ると、森の破壊を憂う天狗らからの技術供与であったりする。
さらに余談ではあるが……唯でさえ強い鬼子らが身軽な機動力まで手に入れたせいで、敵対すると益々危険になったと方々から天狗は睨まれた。
地上の全てを粉砕する破壊槌から、あらゆる方向から襲撃する砲弾達に姿を変えたせいで、知らず速さで撹乱しようとした鎌鼬らが逆に囲まれてボロ雑巾になったというのは恐怖として語られたほど。
自らが撒いた種とはいえ、何かあったらまずいとそのまま鬼子らと約定を結び、両者の間では現在、結構平穏な関係が築かれていたりする。
「あとどれくらいじゃー? 小日本」
「まったく……あと少し、です。 あちらの集合住宅の上に、止まってください」
「よし、心得た」
言うや否や、音無く夜を翔けた鬼子は、やはり物音も立てずにアパートの上へと降り立った。
丁寧に降ろされた小日本も風で僅かに乱れた髪を直しながら姿勢を整える。
鬼子に至ってはその必要すら無いようで、髪の末端に至るまで強靭なようである。
「丁度いいみたいですね、あの人間……です」
屋根の上から指差す先には、スーツ姿の男。 歳は二十歳を越えて少し経ったあたりか。 容姿は普通と言って差し支えない。
慣れた様子でアパートへ向かってきたようである。
「ふむ……? あの人間がか? 特に異常があるようには見えぬが」
「多分、私が感じた気が間違いで無ければ……そろそろ」
不意に、カチャカチャと音が鳴る。 大した音では無いが、どうやら先ほどの男が扉の前で鳴らしているようである。
暫く見ていると、扉が開いた。 鍵を使ったにしては時間がかかりすぎているようである。
「もしや、鍵開け……か?」
「おそらくは」
男は機嫌が良かった。 そして期待で胸が破裂しそうだった。
人を愛し、愛されることのなんと素晴らしいことか。 最近はいつも、会社が終わるとそのまま恋人の家へと行く。
必要なら寄り道ぐらいするが、大抵はそんなものは仕事の休憩時間に揃えてしまう。
この時間、彼女はいつも家にいないのだが、それでも少しでも長くあの二人だけの家にいたいのだ。
最近、彼女は悪戯に鍵の隠し場所を変えてしまったようだが、それもまた可愛い。
自分には見つからなかったが、それでも高校の時にピッキングに興味を持って練習していたのが役に立つなんて、自分はなんと頼れる男だろう。
郵便物が溜まり易い少々自堕落なところも、自分の手の出しようがあるようで愛おしい。
ゴミだけはちゃんと出しているみたいなので、弁えるところは弁えているのも好感を持てる。 ただ、ゴミの分別にはもうちょっと気をつけた方がいい。
脱線して捨てた下着だって、他の男に取られるような事態になったら嫌だから、ちゃんと自分がお守りとして保管している。 全ては彼女への愛故に。
今日は、いい加減彼女と長い夜を楽しみたいと思って、色々と用意して鞄に詰め込んである。 大丈夫、明日は会社の有給を取ったのだ。 彼女のために。
自分も流石に焦れてきたのだ。 お互いが愛し合ってることに変わりは無いが、ここで二人の残りのほんの僅かな距離を0にしよう。
部屋に入り、電気を付けないままで彼女を待つ。
こんなことは初めてだ。 ドキドキしてワクワクする。
右手に持ったモノのスイッチを押してみる。 バチバチした。 素敵だ。
ガチャリ/ドアを開けたようだ、興奮する。 そういえば鍵をかけ忘れたか、まあいい。
そうだ、彼女の染めた茶色い髪が肩口にかかる姿を見て一目ぼれしたのだ。
顔も服のセンスも声も体も体臭も部屋の匂いも知っていく内に全てが好きになった。
だからこんなに自分が彼女のことを好きで理解しているのだから、彼女が自分のことを好きなのなんて当たり前だ。 わざわざ確認する必要すらない。
部屋に来た/我慢、できない
「ふむ……小日本の言うた通り、鬼気に蝕まれておるのう、お主」
顔面、を捕まれ、た……? 彼女じゃない、誰だ!
暗い部屋の中には、スタンガンを持ったスーツ姿の男が日本鬼子に顔面を鷲掴みにされ、ぶらさげられている。
女性の細腕に持ち上げられる姿は奇異に映るかもしれない。 男の咄嗟の判断で鬼子の腕にスタンガンを押し付けているようだがビクともしない。
よく見れば、部屋には可愛らしい人形や有名男性歌手のポスターなどが貼られており、少なくともこの部屋がこの男のものでは無いことだけは分かる。
「ククク、不埒よなあ。 この部屋の女子を襲ってどうする気じゃ?
いや、答えずともよい……主のような鬼気に蝕まれた輩はな、この降魔の刃で貫いてくれよう」
そう言いつつ、いつのまにか持っていた薙刀を左手に構える。 掴んでいる腕に更に力を込めたため、男の顔はミシリと嫌な音を立てる。
だがそうされていながらも、指の空いた隙間から覗いている男の眼は、餓えた犬のように開いて爛々としている。
「オンナ、俺の邪魔を、するつもりか! 許セねえ、許さネエ! 俺と彼女の関係を邪魔する奴を……許すモノカ!!」
「ふん、どうせ一方的な想いなのじゃろう。 お主の鬼気もここまで近づけば私でも分かる。 早々に散らしてやるのがお主の為でもあるじゃろう」
「チガ、う、俺、と彼女は、愛して……哀、してア、邪魔、だタニンが邪魔するな殺す殺すコロスコロス殺して殺してやあああああアアアアアアアアーーーー」
ビリビリと破かれる音が聞こえる。 顔面の表皮を鬼子のてのひらに残したまま後ろに下がる男がいる。
「ぬお? 馬鹿な、鬼人と化したか!?」
見れば、その面は正に悪鬼。 表皮が破られた名残か、骨に筋肉を取り付けた様な醜悪な面となっている。
一回り大きくなった身に、額から延びる一本の角。 そして右腕はスタンガンと同化したのか、形の名残を残して伸びた指先からバチバチと電撃を鳴らしている。
胴体を覆っていたスーツは肉体の変容に巻き込まれ襤褸になり、胸には鞄に入っていたのであろう、ナイフやテープ、ピッキングツールといったものが鬼に同化した禍々しい形状となって収められている。
先のスタンガンの電撃は、一重に妖の力の影響下に無かったために効果が無かった。 人外相手には相応の手段を持たねば効果は無い。
だが今はどうだ。 右手の鬼の手に蝕まれたスタンガンは、同化したことで鬼の気を併せ持つ電鬼となった。 今ならば鬼子といえどひとたまりもないだろう。
本能の部分でそれを理解しているのか、醜悪な面を笑いのように、怒ったように歪ませる元ストーカー。
「なんダ、コレは……力が溢レ、る。 マアいイ、ジャマする奴は……死ネ!」
濁った声で、濁った殺意で、その意を受けて鬼の肉体は突進を開始する。
右手には禍々しい電流が飽和して火花を散らし、左手には胸から引き抜いた鬼の肉が纏わり付いたナイフの両方を構え、眼前の邪魔者を必殺する意思を込めて!
その速度は鬼へと変じただけあって、人の身では決して出せぬ速度。
人の目に止まらぬ速度で、部屋の中という僅かな間を一直線に、ただ殺す一念で疾駆し、両腕を鬼子へと向けて突き出す!
ドン!
空気を突破する音が、響いた。
「ヒャ、ハハハハハハハアア! ジャマ、する、奴はしんだ! サア、あとは彼女を喰ラう、だけ? ……アレ?」
瞬転。 ゴトリ、と鬼の両腕は落ちる。
「グアアアアアアア!」
「無駄じゃよ、鬼に変じて事を為すなどできようものか。 何より、無理な変容を行うから腹が空いておるのだろ。 仮にも鬼の身、人一人の分で賄いきれるものか。
鬼は人を攫い、人を喰らう。 ふん、迷惑な話じゃ。 わしらはそのようなことをせぬのに、主らの性(サガ)が止まらぬのじゃからな」
両腕を天に上げ絶叫する鬼。 しかし……血は、出ない。
単純に、手に持つ薙刀で突進に併せて両腕を切断されたまでのこと。
たかが鬼に変じたばかりの弱小、日本鬼子の名を冠する身にすれば人と変わらぬ。
「ヨクモ!」
胸に取り込まれた幾つもの道具が繋がり、そのまま延びて肉の槍として鬼子へ向かう。
「無駄なことを……どれ」
そんな隙だらけの鬼を目にも映らぬ速度で通り過ぎざまに、斬る。
向かってくる肉の蔦も両足も、斬られたことを知覚されぬままに落とされた。
「あ、アアアアアアアアア」
「五月蠅いのう。 人には聞こえぬから良いが、こちらには聞こえるんじゃ、ちと黙らぬか」
ガシリ、と今度は強制的に五体不満足になった鬼を後頭部から掴む。
幾ら鬼がもがこうともビクともせず、最早逃げることすら出来はしない。
「ゆ、許ひ、し、死にたく、ナイ……」
「ふむ、では訊くが……お主が逆の状況になったならなんと、答えた?」
ドス
答えは待たない。
掴んだまま、背中から鬼の心臓を降魔の刃で穿ち貫く。 断末魔など発することすら許されない。
鬼はガクリ、と精も根も尽き果てたかのような、罪人が罪を悔いて顔を伏せたような姿勢になった。
鬼子の着物が風も無くはためく。 何故か、着物の模様の筈の紅葉はひらひらと部屋の中に浮かび上がる。
そのまま空中を漂う紅葉が鬼へと集まり、大きな身体を隠していく。 醜悪な姿も、面も。
「燃え散れ」
轟、と発生した焔が鬼を包みこむ。
物は燃えず、音もせず。 ただ鬼の鬼たる証を燃やし尽くすだけの焔。
そうして、鬼を覆う火はこれにて燃え尽きる。 はらはら、はらはらと。
「お疲れ様です」
「おお、小日本か。 終わったぞ。 いや、鬼に変ずる瞬間だったとはな、少し驚いてしもうたわ」
「日本鬼子の名を持つ貴女からすれば、別に危険は無いのでしょうけど」
「当然じゃろ。 で、こやつはどうしておくかの? 変じたばかり故、戻せはしたが」
「階段の下にでも置いておきましょう。 幸い、命に別状は無いよう……ちょっとありますね。 まあ最低限は治しておきますが」
「む? 手加減はした筈じゃが」
「両手両足の骨が折れてるのは別にいいとして、胸の部分がちょっと。 でもこの程度なら……ハッ!」
強かに殴りつける。 とはいえ、小日本の力は青年程度。 かなり痛いので気絶しているのにビクンビクンと痙攣している。
だがその衝撃に『繋ぐ』力が載っているので薄皮一枚しか無かった胸の穴も塞がったようである。 あ、泡噴いた。
ついでに、別に殴らなくてもこの程度の傷を『繋ぐ』ことは容易かったりする。
大学の部活が長引いて、少し遅くなってしまったようだ。
ところで最近、私はストーカーに狙われているようだ。 私の部屋に誰かが入った形跡があるし、郵便物が届いてなかったりするし。
警察にいっても、自意識過剰と思われてるのかちゃんと話を聞いてくれない。 たしかに、私の部屋から物が無くなった訳じゃないけど。
でも明日、また警察に行こう。 部屋の前の植木鉢に鍵を隠すのを辞めたのに、部屋に誰かが入った跡があったのだ。
今日はちゃんと寝る前にチェーンをかけて、ついでに鈴もつけよう。
「……あれ?」
誰か、階段の下で倒れてる? この男、たしか二年の時に部活で四年だった……誰だっけ? 暗くて近づき難い変な人だったはず。
あ、近くに鞄が転がってる。 ……え? なんで、捨てた筈の私の下着が、入ってる……の?
「――――――――――!!」
変わらず夜の、屋根の上。 二つの陰がそれを見ていた。
「一件落着、かのう」
「そうですね、おそらく二、三日は目を覚まさないでしょう。
鬼に変じるほどだったのですから、相当消耗している筈です」
「怒っておったな、お主」
「それは…… ええ、縁結びに所縁ある身としては、過去にもこういうことはありましたがやはり」
「帰るぞ小日本。 後は人の世で裁かれるじゃろ、鬼気も晴れてはこやつももう出来まいて」
鬼気があったとはいえ、人が為したことは変わり無く。 そもそも鬼気を含めて人なのだ。
己が為した罪業は、決して無くなるものではない。 これから男は数々の証拠によって罪を暴かれ、そして鬼気が払われたがゆえに反省し、償うだろう。
しかし一連の行為は説得などではない。 強引に、無理やり人を変えるものだ。
だが……為さねばそれが消えず償われぬ人の世なのだから、まことに因果なものである。
「ところで小日本は……好物はなんじゃ?」
「お結びです。 あの機能性、あの美味しさ、あの中身を知るまで分からない期待感、どれをとっても素晴らしいです」
「では明日の朝は共に作ろうか、米は備蓄しておった筈じゃから、色々具材を買って帰ろうな」
「早速買いに行きましょう。 良いお店へとも既に『繋が』っていますので、いつでもいけます」
「は、早いのうお主……別に良いが。 よし、行くか」
「はい!」