鬼子と節分の話
見渡す限りの青空の下、子供たちの楽しげな笑い声と歓声が聞こえる。
メジロが梅の花をつつく姿も愛らしい、山里の初春。
まだ肌寒く、合掌造りの日陰には残雪も見られる如月の三日。
全国で鬼が蹴散らされる日、節分。それは鬼子の居るこの村でも例外ではない。
「鬼わぁぁぁぁぁ、外ぉぉぉ!!」
そんなかけ声と共に手元の麻袋から鷲づかみにされた炒り豆が、思いきり振りかぶられ散弾となって鬼子に降りかかる。樫でできた稽古用の薙刀で防ぐが、あまり意味がない。
「鬼を、怒らせましたねっ!」
ぶんぶん木の薙刀を振るって追いかける鬼子。炒り豆は地味に痛い。
地味どころではなく、正直かなり痛い。気を抜いていると目尻から涙が零れそうになるが、そこは自分も声を大きく張り上げて堪える。
「うりゃぁっ!」
「あたっ!」
逃げる少年の頭を薙刀で叩く。大振りだが、あてる直前にぎゅっと両手で握りを絞り、威力を極限にまで抑えた一撃。彼女の予期したとおり、ぽこん、という音がした。
こちらも痛いのを我慢しているのだ。
それにやられっぱなしと言うのも、鬼子の性に合わない。きっちりお返しはしなくては。
「うわぁ〜〜ん」
叩かれた男の子は、泣きながらお母さんの所に走って行く。ちょっと強くやりすぎたか。
「ほら、男の子なんでしょう! 鬼に叩かれたくらいで泣かない!」
そう叱るお母さんが、我が子を抱きしめながら優しい笑顔を鬼子へ向ける。本当にご苦労さま、そういう笑顔だ。
「さ、次にこの薙刀で討たれたい奴は、だ」
誰ですか? と威勢をあげようと振り向いた瞬間、無数の豆が鬼子の顔面を思いきり叩く。
「お、あ……つぅ、ぅぅ…………」
真っ正面から平手打ちされたらこんな感じなのだろう。今の瞬間を狙うのは、ちょっとひどい。
やぁやぁ遠からんものには音に聞けとか、我こそは平のなにがしとか、そういう口上の最中は攻撃しないのが約束ではないか。
鬼子は思わず薙刀を落とし、顔を両手で覆ってしゃがみ込む。ぎゅっと目もとを手のひらで押さえ、涙を押し出す。
「あ、鬼子さん、ご、ごめん」
流石に今の凶悪な奇襲はまずかったかと、気遣う子供達が駆け寄ってくる。
頭に血が上るのと、角が疼くのを鬼子ははっきりと感じた。ざわめく着物のもみじ模様。
(待った待った待ったぁっ……!)
「あーーーー!!」
昇りかけた血を大声と共に体の外へ。ぐわっと立ち上がり、その余勢をかって拾い上げた薙刀の石突きで地面を叩く。
小さな衝撃波が生まれる。揺れる大地に、一瞬の恐怖心を露わにした子供達だが、山育ちの腕白少年少女の好奇心はそんなものでは揺らがない。
「もうぜぇったい許しません!」
「鬼が復活した、まだまだ豆が足りないぞー!」
「与吉、大丈夫だ! 今年は三日三晩"豆まき"をやっても十分な豆がある!」
「ちょっとは手加減しなさーい!」
空を切って大きな音をたてる薙刀。半ばやけくそ気味だが、鬼子は笑っていた。笑って子供をたちをおいかけ、おいついてはそっと打ち据える。半泣き入りながら武器を振り回す鬼子と、逃げる一行の「微笑ましい」光景に大人達も顔がほころぶ。
「食らえっ、撒き豆の術ッ!」
「むっ!」
草履ばきに、長い裾の着物を着ている事を考えれば、破格の速さで走って追いかけていた鬼子。
豆の投擲体勢に応じて、顔はまずいと袖で防ごうとした所だった。
「えっ……あっ!?」
彼女の大きく前に踏み出された右足は、そのまま地面を踏みしめることなく大きく前にとられる。
そのまま姿勢を崩して大きく倒れ込んでしまった。
「いたたたた……」
膝をすりむいたかもしれない。怪我をすると小日本に怒られてしまう。
「……?」
こんな絶好の機会に、豆の雨がこない。打った背中をさすりつつ、周りを見まわすと「容赦」とは違った空気が流れていた。なんともばつの悪いような、微妙な雰囲気。
視線が鬼子の、特定の場所に注がれている。
彼女もその先を辿ると、それは股のあたりで。転んで、前がはだけた着物の裾から、白い自分のふとももがのぞいていた訳で。
ちゃぽん、と脇の用水路から水の跳ねる音がする。
「乳はなくても、一丁前に艶やかで」
「!」
さっと裾を直す鬼子。その手に小石が素早く握られる。
もう一度おちょくろうと飛び跳ねた声の主、ヤイカガシ。その額に過たず小石は命中する。
鈍い音共に鯉モドキの妖怪は用水路を流されていった。
「鯉じゃなくて、い、イワシ……ぶくぶく……」
そんな散り際の台詞を無視して、立ち上がる鬼子。裾を整え、ほこりを払うと薙刀を大きく振るう。
前髪の間からのぞく瞳は、ほのかに赤みを帯びていた。
「中成、きたね」
「きたなぁ、うん」
恥ずかしさのあまり目尻に涙をためた鬼子。鬼の目にも涙とはこのことである。
しかし、子供達はあくまで冷静だった。
「お前、神社の方な。千代は三本松、与吉は親子地蔵! 寛助は駅家だ、散れッ!」
ガキ大将が手振りを交えて手早く指示を飛ばす。
「あっ! こらぁっ!」
それを合図に、これまでまとまっていた子らが一斉にばらばらの方角目がけて走り出した。
範囲は村一帯。捕まえても交代しない。豆による妨害あり。
世にも過酷な鬼ごっこの始まりだった――
「はあー……、年を追う毎に過酷になっているんじゃないかしら」
お寺の境内。古びたが、よく手入れされている村のお寺に、くたくたになった鬼子の姿があった。
縁側に座って出されたほうじ茶をすすって骨休めだ。
「あーっ、またあざを作ってる。ねねさまはもっと、き、綺麗なお肌を大切にして下さい!」
「はいはい、いつも気を遣ってくれてありがと」
そう言ってわしゃわしゃと小日本の頭を撫でる。子供扱いに彼女は精一杯不満を表現しようとするが、なんだかんだで鬼子に撫でられるのが大好きなのだ。
袖から季節違いの花びらがこぼれる。結局は太陽の下、鬼子に寄り添って同じ景色を眺めていた。
空はまさに小春日和。風はあいかわらず冷たいが、日差しは温かい。
「でも、今日が雨か雪だったらよかったです」
「小日本……」
そんな日本晴れに似合わず、小日本の表情は暗い。
「行事だって言うけど、でも、行事でもねね様がいじめられるのは、嫌です……」
ため息一つつくと、ぎゅっと小日本を抱き寄せる鬼子。
「今日がお天気じゃなかったら、夜の演舞も中止になっちゃうじゃない。それでもいいの?」
「むー、お昼だけ雨が降ればいいんです」
「そんな、都合のいいこと」
小日本の髪を撫でると、小さいながらも二つの角がそこにある事がよくわかる。
小さなこひのもと。その姿に、鬼子はかつての自分を重ねずにはいられない。
こんな角、なんであるのだろうかと、無理矢理引き抜こうとしたことがあった。
今から考えると何を馬鹿なことをしていたのだろうと思うが、あの時は真剣だったのだ。
人とは違うこと。そこに思い至り、悩むことは避けては通れない道なのか。
「随分と元気の良い"鬼打ち"だったことよ」
思い出にひたる鬼子はそんな声に引き戻される。境内の掃除をしていたお爺さんが深々と頭を下げていた。
継ぎ裃に大小を差した壮年の侍だ。お殿様の命で領地の巡察をしているという。
「こんにちは。もうこの村は大体ご覧になったのですか?」
「ああ、大変元気で結構なことである。しかし、君のような娘が鬼とはなぁ。私が知っているのは鉄尖棒を持って、虎柄の腰巻きをした赤鬼だったり、青鬼だったりしたものだが」
しげしげと鬼子を観察する侍。本当に角さえなければ町娘と、いや、その自然な所作からならより身分の高い女性に見えるのにと、しきりに不思議がっていた。
「私に合うのが薙刀だった、ただそれだけのこと。お侍さんだって剣の立つ人もいれば、槍の得意な人、弓の上手な人といるでしょう?」
「うむ……」
その侍は招かれて、今夜に催される演舞の打太刀を勤める事になっていた。
舞いとはいえ、お互いに真剣を使う。万が一がないよう、侍が打太刀を引き受けてからは稽古を重ねていた。彼とて武人。鬼子がただ者ではない事はすぐに分かった。
稽古をつける前にあった「何を女が」という気持ちは今は完全に無い。だが、それでも。
小日本と静かな境内で休む彼女の姿と、"鬼"という存在が繋がらない。
「お侍さんは、まだねねさまの面を付けた姿を見ていないんでしょ? そしたら納得しますよっ。
"女相手に演舞でも負けてやるものかー"って荒々しい浪人さんもいたけど、その人は途中で投げ出して逃げ出しちゃったんだから」
「そういうものか?」
「そういうものですっ」
えっへんと鬼子の代わりにいばる小日本。
小日本が昨年の"舞い"の話をするも、侍はなお半信半疑の様子だ。
練習の時の鬼子は白装束だった。確かに太刀筋は鋭く、果たし合いともなれば全く侮れる相手ではない。
だが、彼女から殺気は全く無く、型も決まった舞いで何がそこまで恐ろしいものなのだろうか。
最後の一太刀が多少緊張するくらいだろうが、彼女の腕前なら心配することもない。
「もし、私が万一自分を抑えられなくなった時、鬼退治をする桃太郎は、あなたですからね。よろしく頼みますよ」
ふっと笑う鬼子。これは演舞にのぞむ相手に毎年かけている、ちょっとした脅し文句だった。
今年もやっぱり言うんだ、と小日本は笑っている。
「お供の犬や雉がおらぬではないか」
「犬はどこにいったのかしら? ろくでもないニワトリと鯉なら居るんですけどね」
はて? と首をかしげる侍に鬼子と小日本は、共通のやっかいな友人を思い出して笑っていた。
「まぁ良い。演舞は私も楽しみにしている。では、庄屋と会う約束をしているのでな。これにて失礼」
きびすを返して去って行くお侍。小日本は大きく手を振って見送った。
「さて、舞いの準備を私達も手伝いましょうか。今はぽかぽかでも冬は冬。日が落ちるのは早いわ」
「はーい!」
お寺の境内に奉納の舞台がある。夜でも明るいように松明を準備したり、年寄りのために椅子を用意したり。全てが終わった後にふるまわれるお酒も運び込まなくてはならない。
鬼はどこにも居て、どこにも居ない。そういうものだけれど。
鬼子にとってこの、とても温かい村は少し特別な場所となっていた。
山間の夜は早い。太陽が山陰に触れたと思っていたら、夕焼けは満天の星空に代わる。
村の人々は三々五々とお寺を目指す。普段は人気もまばらな境内は、綿入れを着込み白い息を吐いて寒そうにする老若男女でいっぱいとなっていた。諸国を巡る曲芸師の一座が来たとしても、ここまでは集まるまい。
「わぁ、今年も集まっていますね」
舞台袖、と言っても観客から直接見えぬように板塀で区切られただけの場所で、鬼子は静かに目を閉じていた。手には荒く柄糸の巻かれた薙刀。装飾を一切廃し、人を断ち切る事のみに特化した刃。
栗梅色から東雲色への移り変わりも美しい衣に、大きな散らされた楓。
傍らでがんばって下さいね、とぐっと両こぶしを握りしめて応援する小日本を一目見た後、般若面を付けた。その秋である。
舞台に静かに進み出て、始まる日本鬼子の舞。薙刀が大きく円を描くように振るわれ、月光に照らされるときは紫に、松明の炎を浴びるときは赤くその軌跡を引く。
動と静。薙刀が空を切る度に、鬼子の豊かな黒髪が広がる。
振り下ろされた後の、微動だにしない残心。
誰もがまばたきすら惜しんで彼女の剣舞に見入っていた。
華奢な彼女の体つきに、般若の面は恐ろしいほど違和感がない。
次第に客席にも一葉、二葉と風に乗った楓が流れてくる。春への歩みを続ける如月の初めに、秋が鬼子から溢れていた。
その幻想的な光景に他の観客と同じく引き込まれる侍。今宵はたすき掛けに、はちまきという出で立ちであった。
静かな夜に、静かな舞い。それなのに心にさざ波がたったまま、おさまらない。
あれは単なる面ではなく、間違いなく彼女の持つ表情の一つ。そう分かる。
子供達を前に豆まきを受けたのも鬼子なら、今、目の前で舞うのも鬼子だ。
あの形相は何へ向けられたものなのか。彼女は今、何を思うのか。
そう思っていると、出番を見送ってしまいそうになった。侍はおもむろに席を立ち、鞘より打刀を引き抜く。
今ここに「鬼退治」の一幕が再現される。
侍は鬼子の流れるような動きにあわせて刀を時に引き、時に息を合わせて突き出し、捌く。
その緊張感は彼にとって、それまで感じたこともない類のものだ。
剣術師範方を勤めていたこともある身にとって、難しいことはなにもない。なのに冷や汗が出る。
時間を掛けたとはいえ、たかが数日間の稽古だった。それなのに数年来、同じ道場で練習を積んだ門下と取り組みをしているのと同じようだ。
二つの刃があたかも意志を持っているかのような心持ち。
考えるよりも先に剣が動いているのだ。鬼子の動きに合わせて自分が操られているようであった。
鬼子の剣舞はほれぼれするように美しく、彼女だけで完成していた。
その場に自分の入り込む余地などないのではないかと、侍は思った。
領民の前で恥はかけぬと、稽古を思い出して必死に食らいついてゆく。
そして、あっという間に演舞は終わりにさしかかる。手はずどおり、大きく鬼子が薙刀を振りかぶり、侍が刀で受けて、つばぜり合いに持ち込む。観客からあがるどよめき。
目の前に般若の面がある。その目は侍の内心を深く見通すようであった。
鬼子から出された僅かな合図にあわせ、大きく刀を弾かせる。彼女が侍の刀をはじき飛ばしたように観客には見えた。
大きく体勢を崩しながら思わず"待て"と言うように右手を差し出す。これで最後の構図が完成する。
それまで一進一退の攻防が崩れ、鬼が王手をかけた瞬間を現していた。
ここまで大きな失敗はなかったと侍は振り返りつつ鬼子を見据える。彼女は上段に構えた薙刀を、躊躇無く振り下ろした。
風切り音を響かせて、刃が目の前を通り過ぎる。直後、侍は首に違和感を覚えた。
死ぬ? まさか。
薙刀の刃先から、紅い雫がぽた、ぽた、と、したたり落ちていた。
あたりに幾つもの楓の葉が舞い散る。清秋の落葉さながらの景色。
そして、葉がすべて地面に落ちて消える頃には、舞い上がった彼女の髪も元に戻っていた。
侍の首はいっこうに落ちない。ごく僅かに切っ先に触れた右手のひらから、微量の血がこぼれているだけだった。
極度に緊張した今では彼は痛みすらも感じていない。
そのまま固まってしまいそうだったが、僅かに残った理性で体を引かせて鬼との距離をとる。
彼女は十分に間合いがとられたのを確認してから、背を向け舞台裏に消えた。
侍はどっと体中から力が抜けるのを感じた。その場に座り込みそうになるのを堪えて席へ戻る。
腰を下ろすとやっと緊張の糸が緩んでくる。
観客が集まってきた。
「ご立派でございました。私が見た中では、間違いなく一番の出来映えでございました」
「流石はお侍さん、本当に肝が据わって、たいしたもんだぁ……」
そんな労いの言葉を次から次へとかけられた。渡された杯に清酒が注がれる。
それをぐっと一息で飲み干すと歓声が揚がった。
周りでも節分を締めくくるお酒が振る舞われていた。それなりに高級な清酒なのだろう。
不味くはなかった。だが味が分かるような状態に彼はなかった。
既に右手のひらの出血は止まっている。
「ねね様との演舞はどうでした?」
小日本だった。彼女の手にも日本刀が握られていた。私もお侍さんみたいに刀を上手に扱えたらなぁと演舞を思い出してはため息をついていた。少しの間考えてから、侍が答える。
「盗賊どもの隠れ家に踏み込んだ時より、余程恐ろしかった。鬼子殿がその気になれば
腕の立つ剣豪が束になった所で手も足も出ないだろう。君はいつも彼女と一緒にいるが、怖くはないのか」
怖くはないのかという問いかけに小日本は不思議そうな顔をしていた。
「ねね様は怖くないです、だって、ほら!」
彼女の指さす先に、小さくなっている鬼子がいた。松明の近くといってもかなり顔が赤い。
「あんまり飲ませないでくだ、ひっく……ください。そんなに、飲める方じゃないん……」
巨大な真紅の杯になみなみと酒をそそがれ、困惑する鬼子。少し口を付ける度、それに倍する量が注がれる。
「鬼が呑めない!? 魚が泳げないと言っているようなものですぞ!」
「ささ、今年も鬼退治を見事退けたのですから、ぐぐっと、ほら!」
「あぁ〜、だから……。ねぇ、小日本、あなたも何とか言ってやって下さい! 私はお酒は……」
「がんばって下さい! 応援しています、ねね様!」
小日本、時にさらっと残酷なことを言ってのける。ちょっと、と伸ばした鬼子の手に次の杯が握らされた。
楓の着物は鬼子にとってとても大切なものだ。衣にこぼれそうになると飲まざるをえない。
今、彼女の顔は赤いが、じき青くなるだろうと、侍は予想する。
そういう意味では、角以外に彼女にも鬼らしいところがあるようだ。
黙り込んで、僅かに震えながら両手で持った杯を口に付ける姿はとても可愛らしい。いや、哀れともいえるか。
「いやはや、鬼は鬼でも、いろんな鬼がいるものだ」
多分悪酔いの辛さもも知らぬだろう小日本が、鬼子が酒を飲み干すたびに恋の素を散らして盛り上げていた。
ヤイカガシやヒワイドリの姿もあり、これもさかんにはやし立てていた。
侍はその光景を眺めていたが、これ以上見ていては鬼子の名誉にかかわるだろうと思い、村長に挨拶して宴を辞す。
夜は更けてゆく。
松明は次第に火勢を衰えさえ、侍も、百姓も、神も、そして鬼も等しく宵闇が包み込んでゆく――
おわり