GoGo! ひのもとさん
前回のあらすじ――白熱するヤイカガシ×ヒワイドリ、動き出したガンダムには謎の呪符が貼られていた。鬼子さんに忍び寄る日本狗の影。
巨大化した鬼子さんの反応速度はわずかに鈍くなっていた。何しろ通常の4倍ほどもある巨体である。
ヤイカガシの声がその耳に届いた時にはもはや手遅れの様子。敵の魔手は、すでに鬼子さんの周囲のビルにまで及んでいた。
ビルの影に潜む闇が甲殻虫のようにてらてらと蠢き、電灯が紫電の舌をちろつかせている。
それらは明らかに邪悪な存在の発露であったが、時は神無月、神の悪戯であるとは期待すべくもなかった。
「バン・ウン・タラク・キリク・アク!」
恫喝のような声で五つの呪文が唱えられ、その一句につき一本ずつ、電柱のような光線が生まれ、鬼子さんをぐるりと取り囲むように走った。
「『オォぉ〜ドゥァぁ〜(中居正広風に) 五芒星の陰陽道風結界、明王金縛りいぃ〜』!」
宙に浮かんだ五芒星は、不可思議な力で鬼子さんの体の自由を奪っている。縄のように縛り付けているのではなく、あたかも前から定まっていた物理法則のように彼女の力を自然といなし、その結界の中心に押し留めようとしている。
「ぐっ……これは……っ!」
動揺する鬼子さんの目に、ビルの向こうから飛んでくる人影が映った。
よほど引き絞ったバネで飛ばされてきたような高速、錐揉みする松の種のようなデタラメな回転。
「おのれ、日本(ひのもと)……狗(くぅ)っ……」
現れたのは日本狗、背後に煌めく翼の軌跡を残して、真っ赤な天狗の面を前に突き出し、山賊のような鎧を纏った偉丈夫だ。
そいつがFFの主人公を彷彿とさせる巨剣を、鬼子さんの頭の上でふるった。
「ふんぬぅぅうぅぇえいっ!」
ぱきゃん!
瀬戸物にヒビが入ったような音がして、鬼子さんの頭から般若の面がずり落ちた。
その瞬間、般若の面が苦悶の言葉を叫び、穴という穴から熱風と光を放った。鬼子さんの巨大化した体は穴の空いた飛行船のようにみるみる萎んでいく。
身長も6メートルから160センチ弱ぐらいに、GカップもCカップくらいに縮んで、籠に入れてもって帰りたいぐらいの16歳の女の子になり、依然宙に浮かぶ五芒星の下にへなりと座り込んだ。
どうやら完全に動きを封じられてしまったらしく、鬼子さんは微動だにしない。
偉丈夫は翼をひとふりして遥か先の路面に降り立った。
アスファルトを側石ごとえぐるほどの大きな爪を持った両足は、まるで獣の脚に酷似していた。獣の姿をしているのは脚だけではない、その腕、肩、首筋までもがすべて堅い体毛で覆われている。
まるでFF10の世界からひょっこりやって来た二足歩行の獣である。
「くぅちゃん……」
うつむく鬼子さんの脇に、般若の面ががしゃんと落ちた。
「その般若は煩いので黙ってもらった」
日本狗はおもむろに立ち上がると、鬼子さんの方に向きなおった。
鎧の至る所に貼り付けられた呪符が音もなく風にそよいで、獣の四肢に不気味な気配がまとわりついている。真っ赤な天狗の面の下からは、醜い獣の鼻つらがはみ出してひくひくしていた。
その鼻つらがもそもそ動いて、鬼子さんに人の言葉を投げかけた。
「これしきで動けぬとは。日本(ひのもと)の名が泣いておるぞ、日本鬼子」
「くぅ〜っ!」
どこからともなく、と言っても過言ではない何も無い場所からとつぜん童女が駆けてきて、その肩によいしょとよじ登った。
「ちょっと、私が乗ってあげるんだから屈むか手を貸すくらいしなさいっ」
日本狗をがじがじ噛んで文句を言っていた。一見すると普通の着物姿の女の子だが、日本狗と同様に夜目にも目立つ獣の耳を持っている。
天狗の面のかわりに卵形のキツネの面を頭に乗せ、梅柄の着物の裾から二本の尻尾をふさふさと動かしている。
耳には白いヘッドホンを装着し、膝の上でノートパソコンを開いてなにやらパチパチやっていた。
明らかに初めて目にする人物であったが、その顔は鬼子が以前見知った小日本そのものである。
「まさかあのデカブツが一撃とはねー。これだから鬼族の攻撃力は侮れないわー」
「大した分析力だな小日本、すでに分かりきった事を」日本狗は皮肉を漏らした。
「い、いいのよ趣味でやってんだからー。あんたこそあんな弱っちいの作ってどうすんのよー」
小日本は、こっちみんなと言わんばかりに天狗の面の長い鼻を押しのけた。
いったい何が起こっているのか、鬼子さんにはまったく理解できない事態だった。
「こにぽん……」
「気安く呼ばないでくれる?」
心の底から不快感をあらわにする小日本に、鬼子さんはじわっと目に涙を浮かべた。
「どうしたの、こにぽん、急にお姉ちゃんのことが嫌いになったの?」
「あらら、まだ気づかないわけ? お姉ちゃんはねー、キツネに化かされてたのよー」
「小日本、あまりしゃべり過ぎるな」
小日本は小言を言う日本狗の首にまとわりついてクスクス笑った。
「酒呑童子の血を引く貴女も、場合によっちゃ私たちの仲間に入れようかって話だったけど。幻術への耐性がゼロじゃ、ちょっと考えどころよねー。全然私たちの正体に気づかないんだから焦ったわ」
「私がキツネに化かされていたからって、どうしたの? こにぽんは、こにぽんでしょ?」
生成鬼子さんの真っ直ぐな表情に、小日本の表情が固まった。
「先にお風呂での質問に答えておくわ。高貴な妖狐さまが鬼と一瞬に暮らすなんて、言語道断。考えただけでも虫ずが走るっていうの。どうしてくれるのよ、この尻尾。毛が生え替わるまでにおいが抜けないじゃないの」
ふさふさの尻尾に鼻面を突っ込み、苛立たしげににおいを嗅いでいた。
そのとき、前かがみになった弾みでぶかぶかの狐の面がずれた。
小日本は尻尾に顔をすりすりしながら、まどろむネコのような声を出した。
「ふにゃあ〜、お姉ちゃんの匂いがするぅ〜、だい好き、だい好きぃ〜」
はっと我に帰った小日本は、慌ててキツネの面を被り直し、きょろきょろと辺りを見回した。
今のはいったい何だったのか、鬼子さんにもよく分からない。小日本はふいに動きを止めて、鬼子さんと見つめあった。
「……なによ、その鬼が豆知識をひけらかしたような顔は」
その時、日本狗は何の前触れもなくぐるると唸った。
不意にビルの屋上から声が響く。
「それを言うなら、『鳩胸が豆乳に出会ったような顔』だろう?」
日本狗はすぐさま臨戦態勢に入った。彼の肩に乗っていた小日本は、振り落とされそうになりながらノートパソコンを開いた。
「上だ」
「気をつけて、この品のないおっぱいジョークはヒワイドリよ!」
鬼子が見上げればビルの屋上、満月を背に痩躯の男が佇んでいた。
先ほど復活したばかりなのか、まだ復活のライトエフェクトが消えておらず、派手な服装のあちこちで星くずのようにキラキラと光っている。ヒワイドリ(集合体)は小日本をびしりと指さした。
「へぇ、とっくに俺の調べもついているとはさすがだな、そこの虚乳ちゃん」
小日本は喉を詰まらせたような顔をして、無い胸をぺたぺたとまさぐった。
「きょっ!? きょ、きょ、きょ……って、え、でもちょっと、字が、字が違う……! はっ……むかぁぁぁぁっ! おのれわらわを愚弄するとは卑劣な、断じて、断じて許さぬっ!」
キツネの面を真正面に被った途端、小日本の尻尾が扇のように持ち上がり、わらわらと数を増していった。
ヒワイドリは相変わらず涼しげな表情を崩さない。
「怪器《金狐の白面》か……やべぇな、こりゃ」
鬼子さんがなんとか体を動かして、懸命に声を振り上げた。
「やめて、あなたでは絶対にかなわない! ヒワイドリ、逃げて!」
「鬼子、違うな。敵うとか、敵わないとか、そんなのは問題じゃない」
ヒワイドリ(集合体)の目がぎらりと光り、苦みばしったように顔をゆがめた。
「愛しの女を泣かされて! 傷のひとつも作らずに逃げられるかよ! たとえそれが死亡フラグだと分かっていても、俺はゲットする!」
「身の程をわきまえん奴め……」
「ふにゅあああっ!?」
肩に乗っかっていた小日本を放り投げて、日本狗が前に進み出た。全身から放たれる殺気が吹雪のように吹き荒れ、彼の足元にうっすら霜がおりている。
対するヒワイドリは両腕を広げ、飛べない鳥が飛び立とうとするかのように、決意を秘めた目で日本狗を見下ろした。
「午後七時は酉(オレ)の刻(じかん)……イッツ・ゴールデンタイムだっ」
「力無きトリよ、お前はひとつ思い違いをしている」
その声が耳に届いたかどうかは定かではない、ヒワイドリの目がかすかに揺れた。
気づけば彼の頬の真横から、一本の剣のようなものが先ほど日本狗のいた――そして今はいない――場所に向かって伸びていたのだ。
日本狗が彼の背後で囁いた。その天狗の面の下で、獣の口吻が鋭い牙を剥いていた。
「午後七時は……戌(ワタシ)の刻(じかん)だよ」
前回のあらすじ――日本狗(本作では犬人間)と小日本(本作では狐耳少女)が突然あらわれ、鬼子さんに猛威をふるう。ヒワイドリが助けに入るが、いつの間にか日本狗に背後を取られていた。
ヒワイドリの頬を温かいものが伝っていった。唇に鉄の味がして、見なくても血だとわかる。
だが、たとえどのような状況に置かれても彼のイケメン・フェイスが揺るぐ事はない。
「……ちょっと速すぎるぞ、わんこ」
「神仏の術に速さなどという概念はない」
ヒワイドリの背後から声がする。恐らく天狗の面を被った犬だ。
ビルの下では狐耳の少女がぴょんぴょん飛び跳ねて、小梅の柄の袖を振っている。黄金色の耳をぴんと立て、子どものようにはしゃいでいた。
「ダメよくぅたん、顔を傷つけちゃ! ささ、早くそいつを縛り上げて、こっちに渡してちょうだい。顔を傷つけないようにね! うふふ、私を侮辱した罪の深さ、たっぷり思い知らせてやるんだからぁ!
もぉ早くちょーだいよぉ! くぅたん早くぅ〜、こにがヒワイお兄ーたんと遊ぶのぉ! 待てないよぉ〜早くぅ〜! 早……あぁっ!」
自分がキツネの面を被っていない事にようやく気づいた小日本。どうやらさっき落っこちた弾みでどこかに転がっていったらしいが、アスファルトの路面は先ほどの等身大ガンダムの暴走で瓦礫だらけであった。
「あぅ、ま、まって、まってて、くぅたん……」
面がないままでは本来の威厳が発揮できないらしい、とてとてと瓦礫の間を探しはじめた。
「まっててよぉ〜!」
必死にお面を探しまわる小日本のふさふさの尻尾を見下ろしながら、ヒワイドリは深く息をついた。
「で、目的は何だ?」
「なんだ、今更だな」
「お前らみたいな敵は本来なら問答無用でゴミ箱行きなんだが、とりあえずそっちの建て前を喋らせてやると言っているんだ、それとも乳の話でもするか?」
「ふむ、すでに王手がかかっているのに態度がでかいな、不死だからか?」
日本狗が首を傾げると、口の端から牙がのぞいた。
「忘れるな、不死には不死なりの対処法があるという事を。ところでヒワイドリ、お前は女にも変化できるんだってな?」
「鼻息荒くしてないで真面目に言え、ふーふー当たってんぞ」
「荒くなどしていない。あの娘に《酒杯》は勿体ない、それだけだ」
ヒワイドリは言葉を咀嚼するような長い間をおいて、打ちっ放しのコンクリートが広がる自分の足元に目を向けた。
「……《酒杯》?」
「《酒杯》は血によって受け継がれる鬼族専用の怪器だ、天狗や妖狐が奪っても使いこなせるような……」
そこまで言って、ヒワイドリはせせら笑った。震える肩に刃が重くのしかかり、服が切り裂かれていったが、彼は笑っていた。
「何がおかしい」
「なのに《酒杯》が目当てか。あーあ、分かっちまったんだよ、お前らの目的が」
刃が何かに気づいたように、ぴたりと進行を止めた。
日本狗はなにかの気配を察するように鼻をひくひくさせていた。
「お前たちが仲間に入れたかったのは鬼子だけじゃない」
「ほぅ?」
「《酒杯》の権威を利用して、背後の鬼族を丸め込むつもりだったな。むしろ本命はそっちってところか。
ところが鬼子は鬼族を従える器であるどころか同族殺しを行っている異端だった。要はお前らの目的にとって将来敵にも味方にも転ぶ可能性を持つ不安要素だってわけだ」
「ふむ、なかなか賢い鳥だな。ならば教えてやろう、私もお前たちの目的ぐらい、とっくに気づいているよ」
ヒワイドリは舌打ちすると、大声で怒鳴った。
「ヤイカ! まだか急げ!」
ヒワイドリの肩から素早く刃が引き抜かれた。
「遅いわ!」
日本狗は低くかがみ込むと、反動を利用して背後に飛び跳ねた。
ヒワイドリは背中に翼を生やして反対側へ飛び、完成される事なく終わった『九字印』を見下ろした。
九字印は退魔の術である、ビルの屋上の広さを目一杯に使ってマス目状の赤い光の線が描かれていた。しかしその直後に、地面をすり抜けてヤイカガシ(美形剣士)の影が浮上した。
「ヤイカガシ!」
片手に剣のような柊の枝を構え、和服を風になびかせつつ、上空の日本狗に急接近する。
「どうしたヒワイドリ、死亡フラグをゲットすると吠えた時のお前は、もっといい目をしていたぞ!」
「やめろ、こんな時に安易に死亡フラグを立てんじゃねぇ!」
「ふん、愚か……!」
日本狗は真正面から突っ込んでくるヤイカガシに向かって、目にもとまらぬ速さで五芒星を描いた。
「バン・ウン・タラク、キリク・アク! 『オォぉ〜ドゥアァぁ〜! 五芒星の障壁風結界、重量感たっぷりのシールドアタック仕立てぇ〜!』」
かなりの高度まで跳び上がっていた日本狗は、次の瞬間にはビルの屋上にまで到達していた。
古くは流星が生み出した空想の産物とされた天狗、日本狗の相変わらず凄まじい高速移動にヒワイドリは絶句した。これがただの妖になせる業だろうか。
「ぬわぁぁぁぁぁぁ!」
五芒星の盾で弾丸のように弾かれたヤイカガシが、コンクリートの床を突き破りながら次々と下階に落ちていく。
地上に到達した五芒星の盾はそのまま地面に光の刻印を焼き付け、ヤイカガシを地下に「封印」してしまった。
ビルの頂点で日本狗がゆっくりと立ち上がり、たちのぼる煙がむなしく風になびいていた。
「くっくっく……くはっはっはっは……」
日本狗はぐきりと首を鳴らし、空に向かって高らかに宣言した。
「力無き鳥よ、そこで指をくわえて見ているがいい。そろそろ戌四つ(オトナ)の時間だっ!」
「くっ……野郎!」
圧倒的な実力の差を前に、もはや愕然とするばかりだった。
日本狗の邪な目が、ビルの下の日本鬼子を捕らえた。
「哀れな鬼の子よ、お前の不幸もすぐに終わる……この《誅剣罰光》によって、苦しみも感じぬ間に霧にしてやろう」
空に描かれた五芒星の力によって束縛された鬼子さんは、さらに恐怖によっても動けないでいる。般若の面が失われたと同時に、彼女の本来持っていた力も失われたかのようだった。
「鬼子っ……!」
逃げろ、と言えない。ヒワイドリもまた彼女と同様だった。圧倒的な力を前にした恐怖、自分は戦闘要員ではないという言い訳、そういったものが彼の翼の自由を奪っていた。
(動け……動けっ……頼むよなんで動かないんだよっ……動けぇっ!)
そのときだった、
(ヒワイ!)
(この声は……)
ヒワイドリは思わずその名を口走った。
「ヤイカ!?」
自らの脳裏に直接響いてくるヤイカガシの声に、ヒワイドリは吐き気をこらえて尋ね返した。
「お前、一体どこでこんな精神的ハッキングを覚えたんだ!」
(聞け、私は今、宿体である魔除けの飾りから抜け出して、魂のままお前に話しかけている!)
「勝手に抜け出してくんな宿体に帰れ!」
(そう、今思えばあの夢はまさにお告げだったのだ。
私とお前が、尻フェチと胸フェチが、二つの世界が融合し、ともに世界を平和に導くべしという……)
「やめろ、俺にはなんの事かわからんがそれ以上しゃべるなっ! すごく不幸になりそうな気がするっ!」
(イッツ・ショウターイム!)
魂に抵抗は無意味だった、次の瞬間、ヒワイドリの全身をキラキラとまばゆい光の渦が包み込んだ。
「やめてぇぇ全身に力がみなぎってくるぅぅっ!」
(フュージョーン! ハァーッ!)
ヒワイドリは今だかつてない感覚に震えた。両手を見るとそこにあったのは自分の手ではなかった。
彼の手はどこからか柊の枝を取り出し、それを大きな剣に変えた。何らかのガスに引火して、炎のような光を放っている。
服装には先ほどの目も覚めるような派手さは微塵もなく、腕にはだぼだぼの袖が垂れ下がり、下は袴に足袋という、完璧な和装だった。
髪型はどうなっているか分からないが、視界にはうざったい黒髪が垂れ下がるままになっている。そして喉からは彼のものではない低い声が漏れてきた。
「融合……完了……」
(ちょっ!? えっ!? 何これ!?)
ヒワイドリはびっくりして声を上げたが、うまく声にならなかった。どう見ても体はほとんどヤイカガシになっている。
先ほどとはまるで立場が入れ替わったかのように、彼はヤイカガシに話しかけていた。
(ゆ、融合っ!? これ体ほぼお前じゃない!? バランス違うくない!?)
「何を言う、翼はほとんどお前じゃないか。翼だけはな」
ヤイカガシは柊の剣を構えると、眼下の日本狗に狙いを定めた。どうやら「飛べ」という意味らしい。
「気にするなヒワイドリ、パンツ盗まば穴二つ、正義を為すために多少の犠牲はつき物だ!」
(俺の体を返せーっ!)
日本狗が半身になり、イチローのごとくに剣を構えていた。それはどんな悪球をも確実に捕らえてヒットに変えてしまう、あたかも魔法のごとき構えであった。
「さらばだ、日本鬼子……!」
鬼子さんの窮地を悟ったとき、ヒワイドリ(翼)は彼の意志とはほとんど無関係に羽ばたいていた。
(ヤバいっ……!)
「急げ、ヒワイ!」
ヤイカガシ(美形)の体をグライダーのように運んで滑空、急接近するヒワイドリ(翼)。
だが、距離がありすぎる。視界の中心に捉えていた日本狗の姿は、まもなくこつ然と消えた。
またしても神業のごとき速さ、五階建てのビルを一瞬で駆け登る高速移動である、彼らが追いつけるはずもない――はずだった。
(うぉぉぉぉっ!?)
今までにない加速感にヒワイドリ(翼)は絶叫した。
白鳥のように優美な翼が空を打った瞬間、周りの空間がぐにゃりと引き伸ばされ、ヤイカガシ(美形)は極光に向かっているかのごとき色彩の渦の中を飛んでいたのだ。
長い長い色彩のチューブの先に、いままさに鬼子さんに向かって飛んでいる最中の日本狗の尻尾が見えた。
いままで肉眼では決して捉える事の出来なかったはずのふわふわの背中だ。
(な、な、な、なんだこの体、すごい力がみなぎってくるぅ!?)
「臆するな、ヒワイ!」
ヒワイドリには、ヤイカガシの言葉が自分の放ったもののように脳蓋に響いた。
「ヒワイ、感じるか、砂を数えるがごとき悠久の稚戯を! 星のごとき神々の戯れを!
これこそ陰陽道の究極、陰と陽の融合っ! 天かける鳥と地およぐ×××の合体!」
(先生、×××って一部伏せ字なのはなんでですか……うぉうっ!?)
日本狗と接触した瞬間、ヤイカガシの柊の剣と日本狗のハリセンが火花を散らした。
すぱしーんという芭蕉の句にさえ詠まれていそうな軽快な響きがして、両者は電光石火のように乖離する。
日本狗は後ろ向きに走るチョロQのように荒々しくビルに着地した。
ふわふわの毛が落ち武者のように逆立っている。
(ヤイカガシ、あのハリセンは?)
「《誅剣・罰光》と対を為す《駄剣・マサオ》だ」
(対を為すのか……)
「あの二本を同時に抜くのは……私も初めて見る」
(よくわかんねぇけど今なら簡単に避けられそうな気がするぜ!)
思わぬ一撃をもらったためか、大剣を前に突き出し、ハリセンを肩に担ぐ二刀流の構えをみせた日本狗は、お面を被っていてもひどく狼狽している様子がうかがえた。
「なんという凄まじい霊気、そしてその翼……ヤイカガシ、貴様はいったい……!?」
(あーあ、なんか形成逆転しちゃったみたいだぜ、ヤイカガシ先生。なんか言っちゃってよ)
「ふっ」
融合という名前にも関わらず、翼以外の肉体のほとんどがヤイカガシ(美形)に乗っ取られたヒワイドリは、さらりと不敵に笑った。
「ヒワイなるヤイカガシと呼んでくれ」
(ば、バカなーっ!!!)
外には聞こえないはずのヒワイドリの叫びと日本狗の叫びが偶然にもハモった。
地上の日本鬼子は、彼女を守るヤイカガシに熱い視線を送っていた。
「ヒワイなるヤイカガシ……それが本当のあなたなの?」
瓦礫の山でお面を探していた小日本はしばし手を休めて、ぽうっと見入っていた。
「ひ、ヒワイなるヤイカガシさまぁ……はわわ」
(ぐぅぅぉぉぉっ!×2 おいヤイカガシっ! なんか俺の存在が形容詞化されてるじゃねぇかっ! 大事なことを言い忘れてんじゃねぇっ! この翼は誰のもんだ!?)
「戦う前にひとつ、大切なことを言わなければならない」
日本狗は攻撃の手を休めて、ヤイカガシの口上に聞き耳をたてた。
「この翼は我が親友、ヒワイドリの……」
ヤイカガシは、そこで言葉をつぐんだ。ちらっと駅前の様子を見る。
女の子たちの視線が一身に集まっているのを感じながら、ヤイカガシは、ふと悲しい思いにふける憂いを帯びた目を空に向けた。
「ヒワイドリの……胸の谷間を覗くことだけに長けた軟弱な翼とは……格がちがう!」
(何かが友情に勝ったーっ!?)
日本狗の喉からぐるると唸り声が漏れ、正面に被っている天狗の面がニヤリと口の端をつり上げてカタカタと震えた。どうやら意志を持っているらしい。
「ファイなるヤイカガシ、それがお前の『真の姿』だというのか!?」
(間違えんな狗ーっ!)
「どうせ今つけた名前だ、どんな呼び方でもするがよい……」
(俺の名前が消えるのを推奨するなーっ!)
ヤイカガシは左右の手に柊の枝を持ち、静かに炎をきらめかせた。
「狗よ、覚悟するがよい! 私の翼からは……なんびとも逃れられん!」
ヒワイなるヤイカガシの和服は天上の着物のように金色に染まり、風にたなびく帯の上をきらきらした光の粒が流れていった。
怪しげな火のついた二本の柊を両手に掲げると、あたかも背中の翼がもう一対増えたかのようであった。
「受けてみよ、我がヒワイなる柊剣技『二の舞ヤイカガシすぺしゃる』!」
(ぐぬぬ〜っ! あとでミーティングだこのヤロウ!)
申し訳程度にヒワイドリの名前を組み込んだ技名を叫ぶと、ヒワイなるヤイカガシは四枚の翼から虹色の尾を引いて急降下した。その速度はもはや目に追えない。
日本狗は猛り狂う虎のように毛を膨らませ、ハリセンと巨剣を持って迎え討った。
「小癪な……私の本気を見て生きていられると思うな!」
凄まじい空中戦が繰り広げられ、半径百メートルの範囲でほぼランダムに火花が降り注いだ。
鬼子さんは目をぱちくりしてただ空を見上げるばかりだ。
展開が早すぎて目に見えないが、どうやら日本狗は不利な状況に立たされているらしい。
まもなく日本狗が仲間を呼ぶ声が聞こえた。
「小日本!」
天狗の面を被った犬がいっしゅん空に現れ、白いものを放り投げてまた消えた。
小日本に向かって投擲されたそれは、狐の耳に当たってふよんと跳ね返ると、まるで意志を持っているかのように半泣きだった彼女の顔を覆った。
「ふやっ!」
お面を探していた小日本は、電気が流れたように背筋がぴんと張った。
しかしそれも束の間、間もなく姿がかき消えたかと思う程の速さで、常識では考えられない高さにまで跳んでいた。
だが、宙にあったのはもはや先ほどの幼女の姿ではない。大人が入れそうな大きさの四角い箱だった。
「『葛籠抜け』……!」
その歌舞伎なネーミングの黒い箱が落ちてくるのを見ながら、鬼子さんは戦慄を覚えていた。
心の中にすむ鬼を見破る彼女の目が、その葛籠の中身の異様さに気づいていた。なにかとてつもなく嫌な物が入っている。
思わず後ずさりするが、日本狗の術のせいで元の場所に押し止められてしまう。
ばこんと葛籠の蓋を蹴り上げたなまめかしい脚が、縁をクリップみたいに挟んだ。
中に収まっていたのはキツネの白面を被った妖艶な女性がひとり。
「あらぁ、くぅちゃん、いいのかしらぁ? 私を呼び覚ましたりしちゃって」
三角形の耳と同色の金色の髪が葛籠の縁からこぼれ、白い肌が乱れた着物の裾から覗いている。まるで湯船に浸かったような体勢で空を見上げていた。
「なんだぁ、くぅちゃん、苦戦しちゃってるぅ。くぷぷ」
鬼子さんには相変わらず目に映らない上空の戦いを見ながら、そんな言葉を漏らした。
「あなたは……誰?」
小日本ではない、そう断定する事は出来なかった。なぜなら小日本が一気に成長したようにも見えた。小日本が七五三なら今の彼女は成人式だ。
白面をつけたその着物の女性は、鬼子の方を見やった。
軽くωの形を成した口元が不意に横にずれ、キツネの面の向こうから青い目が半分だけのぞいた。
「初めまして、日本鬼子さん。私が本当の小日本ですぅ」