初歌
たれぞたずぬる ふかやまの いほりかこつる かたりべに
もてなすすべなそ もたざらむ
かわりに ものがたりひとつ かたりませう
追歌
夜空に(おほぞらに) またたくほしのきらめきを
たぐりつむがむおりひめの おりしころもを たれうけん
ひこぼしなるかますらおか せをばはやみし あいたがい
こころとどけし にじのかけはし
〜よみひとしらず〜
子供というのは残酷だ。
「ねえ、わんこはどうしてお姉ちゃんと結ばれなかったの?」
こんなことを突然訊いてくる。
しかしそれで心を揺らされるほど、彼の心はもう若くはなかった。
膝の上に座ったまま、不満げな顔でこちらを見上げている小日本に、首輪を嵌めたその老人は言葉を返す。深い皺の刻まれた相好に、穏やかな笑みを浮かべて。
「私があの方に求愛したところで、あっさり振られていたはずですよ」
出会った時から今に至るまで、寸分たりとも成長していないその幼い少女は、まだ納得しない。
「そんなことないと思うけどなぁ」
「いえ。私とあの方とでは、釣り合いが取れません」
老人――日本狗は否定した。半ば少女を納得させるため。半ば自らを納得させるため。
しかし少女はなお食い下がる。
「でもお姉ちゃんだって、わんこのこと好きだって言ってたもん」
それを聞いた老人は微苦笑を浮かべた。
「小日本様。それはお姉様のご冗談でしょう。少なくとも異性としての『好き』ではないはずです。……そもそも、そんな言葉を聞いたのはいつですか?」
「んーとねえ……」
しばらく虚空を見つめて記憶の襞をまさぐっていた少女は、曖昧な調子で言った。
「たしか、四回くらい前の冬だったかなあ……」
丁度四年前か。
余りにも遠すぎる過去の話だった。
その後別の話題に移ったが、次第に口数の少なくなっていった小日本は、しばらくして寝息を立て始めた。
日本狗は、限りない生命力と未来を内包した少女の温かな身体を抱え上げる。すっかり髪の白くなった老犬は居間を後にして、少女を寝室へ運んだ。
二組の布団が敷かれた和室。小日本をその一つに寝かせ、彼は主たちの寝間を後にした。
彼女の姉はいない。先ほど出掛けてしまったのだ。今宵もどこかで、鬼と戦っているのだろう。そしてこれからも。
縁側に出た老人は、締め切られていた雨戸を開けた。そこには慣れ親しんだ景色がある。
月光に照らし出される寂しく枯れた山が、まるで自分のように感じられた。
いつまでも変わらず若々しい彼女たちと、醜く老い果てた自分を目の前の光景に当て嵌めていた。
幼い頃は早く彼女に追いつきたいと、そればかりを願っていた。狂おしい程に。
果たしてその願いは叶った。彼はこの家の主たちとは明らかに違う速度で成長し――そして老いていった。
種族として与えられた生命の長さに差がありすぎた。一夏で息絶える蝉の成虫が、人間に恋をするようなものだ。
寿命という問題は、彼の想いを粉砕するのに充分な障害だった。
むしろ彼女への想いが強かったからこそ、伝えるわけにはいかなくなったと表現した方が正確だった。
仮に互いの想いが通じ合ったところで、いずれ彼女の枷になるのは明白だった。
自らの衰えを感じ取ってからの彼は、徹底して主従関係の一線を引き続けた。当時は小日本にはひどく詰られた。そしてそれ以上に鬼子と衝突を繰り返した。
雨戸を閉めた彼は、居間に戻る。
それほど遅い時間ではない。もう少し鬼子の帰りを待とうか、という思いが瞬時頭をよぎったが、結局彼は自室で眠ることに決めた。
明日だけは、何としても早く起きなければならなかった。睡眠時間が日増しに増えている彼にとって、早朝に起きるというのは非常に難しい課題だったのだ。
それに――
顔を見れば、未練が生まれる。
明くる早朝。着なれた灰色の和服に袖を通した日本狗は静かに玄関の戸を開け、外に出た。
薄暗い空には雲一つなく、立ち上った冬の陽は、薄絹のような柔らかさと暖かさで彼の身体を抱き包んでくれるだろう。
これ以上ない好天になるはずだ。しかし彼には、ひどく残酷な現実に思えた。早く行けと、空に急き立てられているような気がした。
足音を忍ばせながら、彼は生涯の大半を過ごした家を離れる。荷物など何一つなかった。欲している物は全てあの家に置いてきた。
持ち出すことができたのは、想い出だけだ。
朝靄の漂う山林を、無心で歩き続ける。当てなどなかった。とにかく、この山から離れたどこかへ――
衰えた聴覚が、自分以外の足音を察知した。
行く手の先だ。このまま進み続ければ顔を合わせる。獣道から更に外れた彼は、木の陰に身を潜めた。
一定の間隔。明らかに歩き慣れた者の足運びだった。
恐怖はあった。しかし微かに期待している自分に気付いた彼は、それ以上の失望を味わっていた。何もかも断ち切って出てきたつもりなのに、と。
規則正しい足音が止んだ。それほど近くはない。しかし遠くもない。
「――最初に断っておくけど、これは徹夜で鬼退治をしてきた者の独り言だからね」
涼やかなその声を聞いただけで、心拍数が上がっていくのが判った。
「あなたが決めたことなら、私は止めない。元々口出しする権利なんて持ってないもの」
彼女の姿を見ることを自制するので、彼は必死だった。見たら終わりだ。
「でもせめて、理由くらいは聞かせてほしい」
ひどく迷った末、彼は口を開いた。
「……誇りや尊厳、それに敬愛という価値観を多少なりとも持っているなら、飼い主に死に目を見せたいとは思いません。猫と同じです」
「あなたは狗でしょ」
呆れたような声だった。
「今なら猫の気持ちが判ります」
しかし彼自身は、ひどく真摯に胸中を吐露したつもりだった。これ以上の醜態は晒せない。自分の余命が幾許もないことは、自分が一番知っている。
「小日本は知ってるの?」
「いえ。何も」
「一生恨まれるわよ」
「気にしていません。私に残された生など長くはない。その点に限っては、自分の欠点に感謝しています」
「私も恨む……と言うのは違うわね」
鬼子は訂正した。
「今だって恨んでる。気を使ってくれてるのかもしれないけど、はっきり言って有難迷惑もいいところ」
「私の我がままです。そしてその我がままもこれが最後なので、どうか見逃して下さい」
溜め息だけが返ってきた。
「あなたがたにとっては短い時間に感じられたかもしれませんが、私があの家で過ごした時間は一生に匹敵します。
その一生に近い間、あなた達と共に過ごせたことは、私の生涯で一番の幸福でした」
「……こんなに腹が立ったの、生まれて初めての経験かもしれない」
殺気だった声が出たのも一瞬でしかなかった。
「だからこの場で、あなたに呪いをかける」
そして女は、淡々と告げた。
「私はあなたのことを愛していたわ。いえ。今でも愛してる」
「……偽りの言葉では、呪いになりませんよ」
「いいえ。この呪いは必ず効力を発揮する。なぜなら私の言葉は真実だから。見た目も寿命も関係ない。
変質するという特性、あなたの言うところの欠点も含めて、あなたという個体そのものに私は惹かれたんだから」
僅かに早口になって鬼子は続ける。
「小日本だって同じはずよ。あなたがどんな姿形の時だって、あの子があなたへの接し方を変えたことはないもの。
一人で悩んで勝手に出て行って、残された者の気持ちも汲んでくれないの?」
「私の気持ちも汲んで下さい。最期の日に、小日本様に目の前で泣かれるのは、死ぬことよりも恐ろしく辛い」
「……待ってるからね。いつまでも」
最後の言葉は、更なる呪いだった。
そして足音だけが遠ざかってゆく。
それが聞こえなくなる頃には、手足はすっかり感覚を失っていた。もう自由には動かせないかもしれない。次に眠れば、二度と目覚めない可能性もある。
空を見上げた。相変わらずの晴天だ。
――雲が見たい。
痺れた手で鬼子に貰った首輪を外してその場に置くと、覚束ない足取りで一歩踏み出す。
この空を、ほんの一部でも覆ってくれる何かが見たい。そうすれば、少しは救われるような気がした。
今の自分には、このくらいちっぽけな夢が丁度良い。
夜も明けきらぬ冬の朝、一匹の老犬が旅立った。
おわり
近未来ぐるめレポート ――ネットで話題のお菓子<鬼子まんじゅう>――
日々激化する、お菓子のレシピ・データ(以下、レシピ)の開発競争。ご存知の通りコンピュータ・ネットワーク(以下、ネット)から有料・無料を問わず入手できるレシピを、ここ数年で爆発的に普及した家庭用調理器にセット、あとは材料さえあれば誰でも手軽に美味しいお菓子が楽しめるというものである。
本物の味をボタン一つで再現できる家庭電化製品は、発売されてから僅か数年という短い期間にも関わらず、設置していない家庭を探す方が難しい状況だ。早くも次の商戦をにらんで、メーカー各社は新製品の準備に忙しい。
鬼が島からネットを通じて発信されたレシピが、注目を浴びている。しかも、誰もが無料で手に入れられるだけに、密かなブームとなっているようだ。
子供達を夢中にさせるレシピ。このぐるめレポート、第16777216回では、これを取り上げたいと思う。どうか、最後までお付き合い願いたい。
まずは、この<鬼子まんじゅう>の誕生から始めたいと思う。
名前の由来は、鬼が島に住む子供を指す鬼子、という言葉が大きな関わりを持っている。これはネット内での悪口に近い意味合いを持っているが、どうやらこの言葉は、当の島の子供達にはピンとこないようだ。一時期盛んにニュース等で目にするようになり、一人の少年がネットで呼びかけた。
「よく分かんないけど、鬼子って名前で美味しいお菓子レシピ、作ろうぜ!」
流行りの家電に使用できるレシピを、素人の、しかも子供だけでどうにかしよう。
この声には、ある意味悪ふざけの要素もあったのだろうが、それを面白がったのか、あっという間に参加者が1000人を越え、様々なアイデアと共にレシピが集まってきた。それをネットという仮想空間で、議論をしている間に奇跡的なものが生まれた。
それこそが、<鬼子まんじゅう>なのだ。
本来、家庭用調理器のレシピは、企業が長年培ってきたノウハウなくしては、誰もが納得する味を引き出すのは難しいとされている。ネットで販売されているものは、無料で入手できるものと比べて、格段の差があることが一般常識であった。
しかし、この<鬼子まんじゅう>はその常識を覆してしまった。少年の呼びかけで集まった素人の集団が、企業のレシピに偶然にも追いついてしまったのだ。
とは言え、企業は何ら慌ててはいないようだ。本音がどうかを伺い知ることはできないが、自分達の蓄積しているものにも自信があるのは勿論のこと、品質を維持する難しさを熟知しているからだ。
実際に慌てたのは子を持つ親達である。少し古い言葉ではあるが、子供達に教えていたことが、美味しいお菓子の名前にされてしまった。しかし、動揺したと言っても何か出来る訳ではない。自分の子供達が<鬼子まんじゅう>を頬張った笑顔を、複雑な心境で見守るしかなかった。
そこで、この事態に懸念を持った人物が、ネットでの規制に乗り出した。
全国PTA総代を兼任する、阿久根議員である。検索エンジン沸騰に「お願い」をして、<鬼子まんじゅう>を子供達から遠ざけたのだ。だが、それに負ける子供達ではない、様々な手段が可能なネットの世界で、相変わらず入手しているようだ。
この<鬼子まんじゅう>、編集部でもレシピを入手、試食してみた。
一口で納得、「美味しいは正義」とはよく言ったものだと感心してしまった。
しかし、無料でレシピを入手できる弊害なのだろうか、類似品や模造品、所謂まがいものが出回る気配を見せている。くれぐれもご注意願いたい。
そこは誰もが『帰りたい』
そして誰もが『帰れない』
世に流るる人達の誰もが通る『思いの場所』
ここから流れに身を委ねれば、きっとここが『帰る場所』になる。
…日本鬼子はそう信じて、『そこ』に飛び込んだ。
「なのに、どうしてこうなった…!」
日本鬼子は頭を抱えていた。
艶やかな黒髪を机の上に散らして、丸出しの角を隠そうともせず、ここに来た事を悔いていた。
鬼子を囲む人だかり、しかし彼女だけを置いてけぼりにして楽しげに笑っていた。
その邪気の無い笑顔がどれほど鬼子を傷つけているかも知らずに。
孤立無援の鬼子。
彼女が出来る事は天にお目こぼしを願うことしかない。
しかし残酷な運命は彼女を決して見逃さなかった。それはまるで天の声のように、人と鬼に審判を下した。
「シジ…それでは発表します。県立桜ヶ丘高校第48回生徒会選挙当選者 生徒会長 一年四組 日本鬼子 ひのもと、おにこ 得票数348票 次に副会長…」
どっと周囲が沸きあがる。教室全体が、いや、学び舎全体が震えるような歓声。
拍手と祝福の言葉が鬼子の上に絶え間なく降りそそぐ。
そしてその重さで潰れるかのように、
鬼子は机の上で崩れ落ちたのだった…。
─ここを去ろうか。
冬の乾いた風に弄られた枯葉が足元を過ぎ去っていく。宿命という流れは、相応しくない者を容赦なく押し流す。
鬼子は無力だった。
若葉萌える新緑色のブレザーも、チェック柄のスカートも、手こずらせてくれたネクタイですら、鬼子を凡庸な景色の一部へと溶け込ませるには到らなかったのだ。
「あっ!鬼子会長だ!」
「鬼子会長おはようございま〜す!」
「ヒュゥ…今日も鬼子会長マジ般若だぜ…」
校門をくぐった鬼子を出迎えたのは、敬意の雨。
しかしながら相応しくない賞賛はつぶてよりも「痛い」。
寒さに言い訳に身を縮め、やり過ごそうと足を速めたその時。
「ぐっ!?」
鬼子の背中に走る悪寒。それは背骨の髄を駆け上がり、頭蓋に響き、頭の角を疼かせる。
明らかな敵意は鬼子が振り向くより早く、『咆えた』
「とまれぇっ!日本鬼子おおぉぉぉっ!!」
鬼子は禍々しいオーラを放つソレに見覚えがあった。
見た目は生真面目な女子高生。それに似つかをわしくない怒気で三つ編みお下げを揺らめかせ、ズカズカ歩み寄る。
「塚居先輩。おはようございます」
「おはようじゃなぁぁい!!アンタのせいでアタシはアタシはぁぁっ!!」
今にも掴みかからんという勢いで鬼子に迫るのは元・生徒会副会長の二年生である。
塚居直子(つかいなおこ)生徒会長選挙で鬼子に圧倒的大差で敗れた『かつての会長鉄板大本命』
今は肩書きの無い一生徒だ。
「ねぇ、ちょっとあの人誰だっけ?」
「あぁ、あの人ね…アレ?名前出てこない…」
「バッカあれは会ちょ…じゃねーな。誰だっけ?」
周囲の人間の反応を忌々しげに睨みを飛ばしながら塚居直子は鬼子に迫る。
「アンタのせいでアタシの存在が空気と化してんのっ!!」
「そ、そんな事いわれても…」
─困っているのは自分も同じである…と言う事が出来たらどんなに楽か。
「アンタにわかる?一年の頃から『ッぽい』ってだけでアダ名が『会長』!高校デビューの夢を捨て去って生徒会に、奉仕活動にっ!青春の貴重な時間を注いできたのっ!!
それでも生徒会長として活躍してましたっていったら進学のとき有利かなぁ〜なんて思ってたから?元はとれると思ってたんだけど?アンタのせいでご覧のありさまだよっ!!」
んばっ!と手を広げ天を仰ぐ塚居直子。
その一瞬の隙を突いて鬼子は走り出した。
「もう限界っ!!」
後ろで塚居直子がなにやら喚いているのが聞こえたがそれどころではなかった。
角が疼く
枯葉が舞う
何が心に棲みつく鬼を祓うか。
塚居直子にとっての鬼は自分ではないのか?