ID:EQgf1R0G氏・ID:FvYITAto氏の無題作品
ギャアアァァス……ギョエエエェ……
小鳥のさえずる良く晴れた朝の野山を、鳥類と魚類の絶叫が覆った。
「うーん、あの威勢の良い悲鳴を聞くと、毎日が平和なことを実感するな」
掘り炬燵の向かいに坐しているのは、深緑色の煌びやかな和装と真上に向かって結われたちょんまげが印象的な男だ。
「おい殿様、あんたいつまでここにいるつもりだよ」
「殿様? 私は馬鹿ではないぞ」
「んなこと言ってねえよ、単なる被害妄想だ……」
「まあよかろう。この時期に外を歩くと、何故かすぐに眠くなってしまうのだよ。寒くてここから出られんのだ」
元は蛙だからな、とその男、モモサワガエルの顔を見ながら少年は思った。
「それはともかく、鬼子はいつ帰ってくるのだ」
背中を丸めて男と同じ炬燵に入っていた日本狗は、さっき言っただろと眉を顰める。
「旅に出てた妹が今日帰ってくるからって、老舗の和菓子店に団子を買いに出掛けてったんだ。遠出になるって言ってたから、いつ帰ってくるかなんて判ら――」
そこまで言って、日本狗の頭にある疑問が浮かんだ。鬼子はいない。ならば今、ヒワイドリとヤイカガシを半殺しにしているのは誰だ?
「たのもー」
玄関の方から、幼い声が聞こえた。
「客人だぞ、わんこ」
「お前に言われんでも出る」
どっかり腰を下ろしたままの殿を睨みつけ、日本狗は玄関に向かった。そして戸を開ける。
「変な動物が洗濯物に取りついてたから、やっつけといたよー」
おかっぱ頭の幼女が目の前にいた。体格に不釣り合いな長大な刀。黒塗りの鞘には鈴がついている。
桜色の着物は膝よりかなり高い位置までしか丈がない。そしてあの女と同じ、角が生えていた。
物干し竿の下には、ぼろぼろになった二匹の妖怪が転がっている。
「あー、あんたが妹さんか。鬼子ならもうすぐ帰ってくるから、とりあえず上がってくれ」
一応茶でもふるまった方がいいのだろうか、などと思いつつ少女を居間に通す。
「おお、なんだその愛らしい娘は!?」
ぐったりしていた殿様が、幼女を見るなり活気づいた。
「あの女の妹だよ」
小日本です、と思い出したように少女は名乗ってからぺこりと頭を下げた。
「そうかそうか。その年で絶対領域を選ぶとは、先が楽しみだな。十年後はさぞむっちりとしたいい太股を衆目の前に晒して――」
ぐだぐだ語り始めた殿様にとことこ近づくと、小日本は背中の刀を鞘ごと持ち上げ、殿の頭に打ち付けた。
「何故にぃ!」
巨大なたんこぶを作りながら、モモサワガエルが崩れ落ちる。
「ふう、嫌らしいことを言う人には、お仕置きです」
額に浮かんだ汗を拭いながら、小日本は爽やかに言うのだった。あの刀は少女には重すぎるのだろう。
「あー、間違いなくあいつの妹だよ、お前……」
呟いた日本狗は台所で出涸らしの茶を入れ、湯呑みを片手に戻ってくる。未だ殿は気絶している。
ちょこんと炬燵に当たっている小日本の前に、茶を置いた。
「ところでお兄ちゃん、誰なんですか? 私がこの家にいた頃はいませんでしたよね」
炬燵に入りながら短く返す。
「日本狗。ここに来たのは最近だ」
「何でこの家にいるんですか?」
「居候、一応番犬も兼ねてる」
きらりと幼女の眼が好奇心の光を放った。ような気がした。
「本当? 番犬なんて言って、実はお姉ちゃんが好きでここにいるんじゃないの?」
あ、こいつとは絶対馬が合わないな。突如タメ口で問われた瞬間に、少年は確信した。
「あの女の追っかけなら結構いるけどな。表の魚と鳥もそうだし、そこで伸びてる蛙もだ」
「やっぱりお姉ちゃんは人気なのねー。私もあんな大人になったらあんな人になるんだ」
うっとりした様子で、茶を一口飲んだ小日本は溜息をついた。
「で、お姉ちゃん争奪戦は誰が優勢なの?」
「知らねえし興味もねえよ。その気になるような相手がいたら、あいつが自分で相手を選んで終いだろ」
険悪な顔をしている日本狗のことなどお構いなしに、小日本は話題を引き延ばす。
「何言ってんのよー! そんな風にカッコつけてるだけじゃ、女の子は振り向いてくれないわよ! 日本狗ったら何も判ってないみたいだから、そこに直りなさい! 私が恋の駆け引きについて一から教えて――」
少年がこれほど切実に彼女の存在を願ったことは初めてだった。思わず呟きが洩れる。
「早く帰ってきて、こいつの相手を代わってくれ、鬼子……」
そのときだった。
表の戸を叩く音がした。日本狗はほっとした表情で言った。
「ようやく帰ってきやがったぜ……」
少女は顔をぱっと輝かせた。
「ねねさま!?」
しかし、戸を叩く音はどんどんと激しくなっていった。日本狗は眉をしかめた。
「自分の家に帰ってきて戸を叩くものですかね」
いつの間に目を覚ましたのか、モモサワガエルが身を起こしながら言った。
「解ってら。だけど普通の人間にゃこの家は見えないはず……」
「と、なれば」
モモサワガエルは袴の裾を払って片膝を立てた。
「お前はそのちっこいのを見ていろ。俺が出る」
日本狗はモモサワガエルを制して立ち上がった。居間から玄関に向かう後姿にはふさふさとした尻尾が付いていたが、機嫌よさげに一振りした途端に、すぅっと見えなくなった。同時に大きな犬の耳も人のものに変わる。和装は奇異だが、ぱっと見れば人間の少年だ。
「誰だか知らんがそんなに叩くと戸が壊れるぜ」
ドンドンと叩く音は玄関に近づくにつれて大きくなっていった。
日本狗は軽口を叩きながらも、警戒怠らず戸を開けた。
「た、助けてくれ……!」
その途端、三人の人間が転がり込んできた。
一人はたいそう大きなカメラを首から提げていて、一人は女性、一人はスーツの男だった。
「何だ?どうした……?」
「ば、化け物が……!」
日本狗はとっさに頭に手をやった。変化しそこねたかと思ったが、そういうわけではないらしい。
「あ、あ、あれ……!」
人間の視線は玄関の外に向かっていた。狗はその視線の先を見る。
ざ、ざ、ざ、ざ、ざ……。
小さな畑の向こうの木々の間から、黒い瘴気に包まれた何かがこちらへ向かってきていた。
「どうしたの?」
後ろから少女の声がした。狗はとっさに後ろ手に戸を閉め振り向いた。
「ばか、出て来るな。引っ込んでろ」
「鬼か!?」
少女の後ろからちょんまげ姿の男が姿を現した。日本狗は舌打ちをした。
「みていろといっただろうが馬鹿殿が」
「みていたさ。幼い太ももの健康そうな艶めきが躍動して目の前を通り過ぎて行く様子はまさに至福……ゲフッ」
少女に脛を蹴られてモモサワガエルはしゃがみこんだ。
そのときだった。ズシン、と屋根が揺れ塵が舞った。
「ひぃぃ!」
人間たちは腰を抜かして天井を見上げた。
「野に住む妖怪じゃない。……お前ら、何があったのか話してみろ」
日本狗は鼻をひくつかせて気配を嗅ぎながら言った。
「あ……あっちゃんが」
「あっちゃん?」
「同じ『月刊山ガール』の専属モデルで……」
女性が言った。スーツ姿の冴えなそうな男が続ける。
「今日は表紙の撮影で。彼女はキャスティングされていなかったのですが、現場に突然やってきて……『だましたなぁ!』ってすごい形相で言ってあんな化け物に……」
「芸能界で『騙したな』と言えば悪者は監督かプロディーサーと相場が決まっています」
少女がこまっしゃくれた表情で言った。
「なんだプ、プロ……?」
日本狗は片眉を上げた。
「お前か?」
スーツの男に視線を向ける。スーツの男はプルプルと首を振った。
「と、とんでもない私はしがないマネージャーで……」
「違うんです!多分、あっちゃんが恨んでいるのは私なの!」
女性がわっと手の平に顔を埋めた。
「あっちゃんにカタヒラさんの事で相談されたの。私、絶対やめときなって止めて……だけど年間表紙モデルが私に決まって、あっちゃん私とカタヒラさんのこと疑ってるんだわ」
「な、なにを……」
カメラを手にした男が動揺して言った。
ミシミシ、と屋根が軋む。
「くっそ、こんなときに鬼子がいないとは……」
日本狗は唇をかんだ。
「仕方ねぇ」
戸に掛けた手に力を入れたそのときだった。
「こにがやる!」
再び日本狗は振り向いた。少女が真剣な表情で少年を見上げていた。
「あなたがやったら人を傷つけちゃう。鬼は……鬼が絶つ」
「だけどお前……膝がガクガクいってるじゃねーか」
日本狗は口をきゅっと結んだ少女の瞳を見返した。
「ね、ねねさまが下さった刀があるもの。こにだって、ねねさまみたいに立派に鬼を退治できるもの……!」
そう言って、日本狗の傍まで歩み寄った。
「あ、開けて」
見上げる少女の表情に、日本狗はごくりと唾を飲み込んだ。そしてすうっと戸を開いた。
フワッと黒い粘っこい瘴気が屋敷の周りを覆っていた。玄関の戸を境にそれは弾かれている。何か守りが施されているのだろう。
少女は一歩瘴気の中に踏み出した。続いて狗も外に出た。
「あ、あなた!人の心の荒ぶる魂よ、我が太刀の……」
屋根を見上げて少女が声を上げた。
屋根の上には細長い人間の手足を何本も突き出した蜘蛛のような姿の異形の者がいた。
「う・る・さ・い。だ・ま・れ・こ・む・す・め……!」
長い髪を振り乱した小さな頭から、擦れた声が絞り出された。
そして、髪がひゅうっと宙に舞い上がり……少女に向かって襲い掛かった。
「ボケ、突っ立ってるな!」
少女に届くかと思われたその瞬間、大きな白い犬の姿がその前に立ちはだかった。
髪はその白い犬の手足を縛しようと絡みつく。犬は首を激しく振り、鋭い牙で髪を食いちぎった。しかし次から次へと髪は犬に絡みつく。
「日本、狗……!?」
少女は目を見開いた。そして背負った長い太刀に手を掛けた。
「静まれ、止めて!」
そう叫びながら、必死で太刀を抜こうとした。だが、その刀は少女の身体には長すぎて刃は鞘から容易に抜けないのだった。
(ねねさまのばか……!どうしてこんな刀なんか……)
少女は焦りながら心の中で叫んだ。目の前で日本狗はどんどんと手足の自由を奪われ、長い口吻にも巻きつき、牙を封じられようとしていた。抜けない、抜けない!焦って柄を握る手が震えた。
「ねねさま――ッ!」
「遅くなってしまったわ。ごめんなさいね」
軽やかに鈴の鳴るような声がして、少女はハッと目を開けた。
パッと閃光が走り、半ば地面から離れていた狗の身体がドサッと地面に落ちた。
断ち切られた髪がバサリと落ち、残りの髪はザザザ、と屋根の上へ退いていった。
「……ねねさま!」
日本狗のうずくまる傍らに、真紅の着物の袖をはためかせた乙女が立っていた。
金色の輝きに似た色の角を、艶やかな黒髪の間から二本生やしている。
両腕には長いなぎなたを支えていた。
「鬼よ、悲しきその魂……いざ萌え散らさん!」
乙女はフワッと軽やかに飛び上がり、そして次の瞬間、乙女は目にも留まらぬ速さで薙刀を振るった。
「××××――!」
声に鳴らぬ声が里山に響き渡った。
屋根の上から、鮮やかな紅葉の葉が乱れ散る。赤、橙の乱舞が家の周囲を染め上げた。
その紅い葉に瘴気が吸い取られるようにして空気が澄んでいった。そしてその瘴気を浄化した紅葉は地面に溶けた。
「誰か、この方を下に降ろしてあげてー」
屋根の上から暢気な鬼子の声がした。紅い着物の袖を振っている。
「やれやれ……」
足元で狗の声がして視線を下に戻すと、白い犬が身を起こして身体をぶるぶると震わせた。髪の残骸が宙に舞って地面に溶ける。
そして身体をしならせて屋根に跳躍すると、女性を口にくわえ、鬼子を背に乗せて戻ってきた。
「あっちゃん……!」
家の中から、女性が飛び出してきて狗が降ろした女性に駆け寄った。
狗の背から降りた乙女は、小鬼の少女に歩み寄った。
「コヒノモト、おかえりなさい」
「ねねさま……」
コヒノモトと呼ばれた少女は目を潤ませた。
「こに、何も出来なかった。こんな刀なんか……。ねねさまなんか嫌い」
握り締めた拳で涙をぬぐいながら、しゃっくり上げる。
「こに。辛い思いをさせてごめんなさいね。だけど、わたしはあなたにはその刀が相応しいと思っているの。……いいえ、その刀を使って欲しいのよ」
「だって、抜けないの。使えないよ……鬼、切れないよぅ……」
「ふふ。それはね、斬ろうとしたら抜けないのよ」
「斬ろうとしたら……抜けない?」
「そう。斬るのは……わたしだけで十分」
ふ、と乙女は寂しげな光を瞳に宿した。
「ねねさま?」
訝しげに声を掛けたコヒノモトに、にこりと乙女は笑いかけるだけで何も答えなかった。
それから人間の女性二人の方へ向き直った。
「あっちゃん……!目を開けてぇ……」
コヒノモトも彼女たちに視線を移した。
抱き起こされている女性の顔は青白く、瞼は閉じられている。
「大丈夫よ。しばらく休んだら気が付くわ」
乙女は二人の傍に膝を付いた。
「ほら、こに、見える?切れてしまった繋がりが……」
コヒノモトはじっと目を凝らした。
ぽうっと淡く光る糸が二人の心から浮かび上がり、その繋がる先を求めてふわりふわりと揺らめいていた。
「彼女の心の鬼が噛み千切った糸よ。ほら、繋がりを求めてる」
コヒノモトは乙女の顔を見た。
「結んであげなくちゃ」
「そうね」
にっこりと鬼の乙女は微笑んだ。
「でもどうやって……」
「必要なものを思い描いてごらんなさい」
コヒノモトの手をとり、乙女は背の太刀を握らせた。
「結ぶ……」
コヒノモトは相手を探して漂う糸を結ぶことをイメージして、柄をゆっくり引いた。
ふわり……と桜の花びらが舞った。
するすると嘘のように鞘から刀身が姿を現した……と思いきや、それはいつの間にか赤い糸をつけた刺繍針に変わっていた。するすると鞘から赤い糸が繰り出し、桜の花びらが吹き出してくる。
コヒノモトはその刺繍糸でしっかりと二人の心を結びつけた。
繋がった二人の糸は桜の花を一斉に咲かせ、舞い散り、見えなくなった。
コヒノモトは刺繍針を背中へ回した。と、いつの間にかそれは柄になっていて、カチリ、と唾鳴りを響かせて鞘に収まった。
「綺麗に萌え咲いたわね」
乙女はにっこりとコヒノモトに笑いかけた。
今度は、コヒノモトも笑い返すことが出来た。
「あっちゃん……!」
気を失っていた女性が目を開けた。
「あら、わたし……」
「良かった!」
「何だか悪い夢を見ていたみたい。ごめんね、解ってたのあなたがそんなことするはずがないって。だけどどうしても抑え切れなくて……」
「いいのよ。わたしこそきちんと言えばよかった。わたしの心にいるのは唯一人、あなただけだって――」
カシャカシャカシャ、と異質な音が響いた。
「おま、なにやって……」
いつの間にか少年の姿に戻っていた日本狗がカメラを構えた男を怒鳴りつけた。
「いやあ、すごい!何もかもがワンダホー!」
カメラマンがいつの間にか家の中から出てきて、一心不乱にシャッターを切っていた。
「わんこ、悪いけどアレ、呼んできてくれない?」
それをみた乙女が肩をすくめて言ったそのとき。
「アレってもしかしてあっしのことでゲスかー?モノ扱い、ヒドイ!」
その場にいるすべての人々の鼻を猛烈な臭気が襲った。
中庭のほうから、奇妙な生物が飛び出してきたのだ。魚のような、蛙のような、獣のような……とにかく醜い異形のモノ。
そして次の瞬間、人間たちがバタバタと気を失って倒れた。
「さすがにキョーレツだなーヤイカガシの臭いは」
甲高い声がして、鶏のような良く解らない鳥が姿を現した。
「人間にゃ耐えられんだろな……」
モモサワガエルが腕を組む。
「記憶まで消えちゃうから便利よぉ〜」
にこにこと紅の着物の乙女が言った。
「さて、山道まで連れてってあげて。そしたら、今日はご馳走作るんだから」
「また俺かよ……鬼子」
「頼りにしてるわよ」
「鬼子たん、ご馳走って俺の臭いにご褒美?」
「馬鹿なこと言ってないで、買い物してきたものその辺に置いてきちゃったから取ってきて」
「そんなことより鬼子たん、乳の話を……」
「あなたはかまどに火を入れてきて。水も汲んでおいてね」
「ご馳走より腿を触らせてくれたほうがいいぞ鬼子どの」
「あなたは散らかっちゃったところ掃除してね」
コヒノモトは妖怪たちに纏わりつかれているその様子を見て、そこに自分の居場所が無いような居たたまれない気持ちになって、思わず声を上げた。
「鬼子ねねさま!」
鬼子は振り返った。妖怪たちも幼い少女を見た。
そして、鬼子はコヒノモトにふわっと笑いかけた。
「お帰りなさい、小日本。今日はあなたのお祝いよ」
妖怪たちが微笑む中、小日本は広げられた鬼子の腕の中に飛び込んでいった。