ID:OgpVM0vy氏の無題作品
こにぽん、SS書きになる
日本鬼子の家の縁側に腰掛け、ぼんやりと、しかし一見すると不機嫌そうな表情で午後の陽を浴びていた少年、日本狗の耳に、幼い女児の声が届いた。
「あ、わんこー!」
家の奥から出てきた、背中に巨大な刀を背負ったその女児、小日本は、日本狗の隣にぺたんと座り込むと、手に持っていた紙の束を差し出した。
「探してたんだよ。はい、これ読んで!」
受け取ったそれは、原稿用紙だった。こんな物、家のどこにあったのだろうと思いながら、黒い革製の首輪を付けた少年は表紙のタイトルを読み上げた。
「『わんこのだいぼうけん』……?」
「SSって呼ぶの! 読んでみて! わんこが主人公なんだよ!」
それは予想がつくが、と思いながら小日本の顔を見返す。
期待に満ちた無垢な眼差しに真正面から貫かれ、彼女の遊びに付き合うしかないと少年は判断した。
「あ、ああ。判った」
気圧されながらも、彼は二枚目に目を通した。
最初のあらすじには、自分と同じ名前の好青年が、妖怪に捕らわれ全国各地に幽閉されている『小日本』という名前の八人姉妹の姫たちを救う物語と記されていた。
体裁としてはこの家の主、鬼子が好んで読む小説に近いらしい。
そして三枚目の本文に目を通した少年は瞬時に悟る。これはまともに読める代物ではないと。
年端もいかない少女が書いたのだからある意味当然なのだが、まず登場人物がどこにいるのか判らない。
誰が喋っているのかも曖昧。時折入る文章も日本語としての間違いが目立つ。
読むふりだけを続け、機械的に紙をめくり続けていた日本狗は、数分後に原稿用紙の束を小日本に返した。
「……どうだった?」
期待と不安の入り混じった表情を浮かべている子供相手に、まさか本当のことを言えるわけがない。
「いや、まあ……面白かった」
「本当!?」
少女は大きな目を一層大きく見開き立ち上がると、日本狗に弾むような声で言った。
「じゃあ急いで続き書いてくるから、楽しみにしててね!」
「あ、ああ」
最後まで勢いに流され続けてしまったが……
「まあ、大した問題にはならないだろ」
そんな自分の考えがいかに甘かったかを、日本狗は後日、嫌というほど思い知ることになる。
そして翌日。
「わんこー!」
昨日と全く同じ状況が訪れた。つまり日本狗は午後縁側で日向ぼっこをしており、小日本は原稿を片手に駆け寄ってくる図だ。
違いがあるとすれば、少女の持つ紙の厚みが増しているという点だけだ。
まさか、という思いを抱きながら日本狗は先手を打って尋ねる。
「もしかして、この前の続きか?」
「うん!」
答えた少女は、昨日より重い原稿を渡してくる。無言で受け取った日本狗は、これまた昨日より重みを感じる手で紙を繰る。
元々まともに読んではいないが、それでも昨日と話が繋がっている雰囲気ではないのが判った。登場人物が増えたせいか台詞の発言者はますます判別しづらい。そして話の中身が頭に入ってこない。
最後の原稿用紙に目を通すふりをして元に戻した頃には、かなりの疲労を感じていた。
「どう!?」
小日本の感想をねだる声に、頭痛すらする思いだった。こんなことを口にしていいのだろうか、という疑問を持ったまま、少年は口を開く。
「うん……面白いん……じゃないかな?」
「ありがとう! どんどん続き書くから待ってて!」
少年はひどい胸のむかつきを覚えていた。そしてその正体が良心の呵責だということに気付くまで、さして時間は要さなかった。
壁時計が夜の十時半を示す頃。炬燵に入っていた日本狗は、机を挟んで正面の座椅子に掛けている紅葉柄の着物を着た美女、日本鬼子に尋ねた。
「なあ鬼子。小日本はまだ書いてるのか? あの、SSってやつ」
「ええ。さっき部屋に布団敷きに行ったら、机にかじりついていたわよ。もうこんな時間なのに」
松本清張の二夜連続ドラマを観ながら同時にその原作小説を読むという荒業をやっている、額から角の生えた美女は、抑揚のない声で言った。
それを聞いた少年の気分はまた沈む。
「どうせすぐ飽きるでしょうけど、あんまりのめり込みすぎるのも考え物ね。もう寒いし、風邪引かなきゃいいけど」
「鬼子……お前読んだか? あいつの書いた物」
「読んでない。あんたの為に書いてるらしいから、私が読ませてと頼んでも見せてくれそうになかったし」
分厚い本の紙面とブラウン管を交互に見ながら、またしても鬼子は、さらりと聞きたくない事実を口にした。
「俺には文章の良し悪しなんて全く判らねえけど、あれはちょっと、つまらないんじゃないかと思うんだが」
「あんたがそう思うんならそうなんでしょうよ」
「いや、でも普段から本読んでるお前の方が正確な評価ができるんじゃないか?」
机の中央にある菓子入れの皿からせんべいを取った鬼子は、それを齧りながら答える。
「画一的な評価なんて下せないわ。音楽や映画なんかと同じで、小説だって個人の好みがある。私は楽しんでるけど、あんたがこの本読んだって面白いと思わないかもしれない」
この本、と言って鬼子は清張の本を軽く持ち上げた。
「でも、面白い小説なんて滅多にないわね。図書館に置いてあるベストセラーに全て目を通したって、本当に好きになれる作品なんてそんなにないんだから」
「マジかよ……」
「自分の好みをきちんと把握していけば、好きな作家とか作風で当たりをつけることもできるけどね。
人気作を手当たり次第に読むよりは、そっちの方が効率は良い」
「ならあいつの書いた物は、俺の好みに合ってなかったんだな……」
そこまで言って、日本狗は机の上に突っ伏した。自分がこうしている間にも、小日本は筆を握って拙い字を書いているはずだ。
「まあ率直な感想を言ってあげることね。本当に好きなら何を言われても書くことを続けるんでしょうし、そうすれば自分の問題点に気付いて改善していくかも」
「率直な感想ね……簡単に言ってくれるよ。他人事だと思って」
「だって他人事だもの。あ、おせんべいがページの付け根に入っちゃった」
本を逆さにして振っている鬼子に恨めしげな視線を送り、日本狗は自室へと辞した。
そのまた翌日も全く同じ状況は再び訪れたが、決定的に違うことが起きた。
「ばかああぁぁぁ!」
小日本の絶叫と共に、原稿用紙の束が日本狗の顔面に叩きつけられる。眼前で舞う何枚もの原稿用紙の向こうで、少女が家の奥へと走って行くのが見えた。
「まあ、当然の結果だな……」
鬼子の助言をそのまま採用したのは、失敗だったのかもしれない。間を置かず、小日本の掛け込んだ部屋から啜り泣きの声が聞こえてきた。
散らばった原稿を全て拾い、揃えて自分の横に置く。罪悪感を意識的に頭の中から閉め出しながら庭先を眺めていると、雑木林から小さな鶏と足の生えた鰯が躍り出てきた。
鶏の妖怪ヒワイドリと。鰯の妖怪ヤイカガシは、縁側に座っている少年の足元まで来て、非難の声を上げる。
「一部始終見てたでゲスよ」
「あんな小さい女の子を泣かせるなんて最低な――ああぁぁぁぁ……」
「全く、男の風上にも置けないでゲス。お前なんてさっさと――ぬぐおおぉぉ……」
「頭潰されたくなかったら、さっさと帰れ」
「はいぃぃぃぃ」
「わかりましたああぁぁ」
二体の頭部を踏みつけていた足を離すと、「覚えていろ」「借りは必ず返す」などと騒ぎながら一目散に山へ帰って行った。
「……後味悪いな」
冷たい風が通り過ぎ、隣に揃えて置いていた原稿用紙をまた散らしていった。
こにぽん、鬼になる
微かに甘みを帯びた、桜の香りが鼻腔を衝いた。
布団に入って眠りについていた少年はその匂いで意識を取り戻し、目を開ける。
毎日寝起きしている、何の変哲もない和室。静寂の中、居間の壁時計の秒針が動く硬質な音。暗闇と天井。その木目。
暗闇の中に、見知らぬ女が立っていた。
十五歳よりは下に見える。白い薄手の衣。丈の短い裾から伸びた細い足。闇の中にあって、尚仄白く光を放っているような錯覚すら覚える、白くきめ細かい肌。
大きな瞳は憂いを帯び、その人形のように美しい面には、少女のみが持つ無垢さと、成熟した女のみが持つ色香が混在している。しかし額の角だけは禍々しさを感じさせた。
そして小さな手には、抜き身の長大な刀が握られている。
「――あの物語の結末で」
女の向こうにある天井の木目が歪んだ気がした。咄嗟に日本狗は身体を横に転がす。
女の振るった白刃は、布団はおろか、その下の畳までも両断している。
中腰になりながら、少年は女と対峙した。熱を持った右頬に手を当てる。
粘性を帯びた液体の感触が手にこびりついた。
薄桃色の形の良い唇が、感情のない声で言葉を紡ぐ。
「あなたと私は、結ばれていたはずなの」
「小日本、なのか……?」
頬の傷から流れた濃厚な血の匂いを感じ取りながら、壁際まで後退した少年は問う。
「そうよ。判らなかった?」
嘘だ。見た目がどうこうではない。存在の本質が違う。
これが、心の鬼という奴か。
部屋の唯一の出入り口を塞ぐようにして立ったその少女は、口角だけを持ち上げて笑む。
「私、綺麗になったと思うの」
女がその場で刀を一閃した。
直後、不可解な現象が起きる。明らかに攻撃が届く間合いではないのに、少年の肩はざっくりと裂けた。一層血の匂いが強くなる。
「あなたの眼には、どう映ってる?」
再び女の刃が閃き、同時に日本狗の足に深い刀傷がつけられた。
「ふふ」
野に咲く可憐な花のような微笑。しかし女の刃が振るわれる度に、平凡な暗い和室は鮮血に染まっていった。
女の動作に合わせて日本狗は何度か跳躍を試みたが、回避は成功しない。脇腹、額、肩、腿、脛。
程なく怪我をしてない部位を探す方が難しいような状態になった。
ここに至って、まだ日本狗は状況を把握できていなかった。小日本が鬼になった。なぜ?
俺がひどいことを言ったから? そこまでのことだったのか?
生き残るためには、殺すしかないのか?
痛みと出血、そして女の発するひどく甘い桜の香りで、思考が鈍磨していく。
血を吸った首輪、鬼子に貰ったその品の留め金に手を掛けた少年は、脱力した。
――もういい。
要するに言われた方はそこまで傷ついていたということだろう。どうせこの世に未練があるわけでもない。
あの女に拾われていなければ、どこかで野垂れ死んでいたはずの命だ。
「さよなら」
慈愛と憐憫の響きを伴った声だった。女の刀が持ち上がる。
鬼子さん、キレる
しかし次の瞬間、その胸には白い刃が生えていた。
「なっ――」
木製の戸が弾けるような勢いで倒れ、悲鳴を上げかけた小日本がその下敷きになった。
扉のあったその向こうにいたのは、前蹴りを入れた姿勢で硬直している日本鬼子だ。
少年と視線がぶつかるなり、殺意に近い程の怒りを瞳に浮かべた鬼子は、地の底を這うような声で言った。
「……五月蠅い。今何時だと思ってんのよ」
倒れた戸には、鬼子の愛用している薙刀が突き立っていた。扉越しに小日本の貫いたのか。
「く、はっ……」
「あらこにちゃん。ちょっと見ない間に随分女らしくなったじゃない」
戸の下で苦悶の声を上げながらもがく小日本に気付き、鬼子は屈み込んだ。
「でも犬っころ苛めに夢中になるなんて感心しないわね。それに、こんな出入り口に突っ立ってると危ないわよ?」
「ねえ、さん……」
不快げに眉を顰めた鬼子は、小日本の背に立っていた薙刀を引き抜き、その首を一瞬で刎ねた。小日本に似た女の姿が、一瞬で黒い靄の塊になって霧散していく。
「貴方に姉さん呼ばわりされるなんて、不愉快」
「鬼子……今のは」
「小日本から現出した鬼でしょうねえ。にしても……」
吊り上がった目尻で部屋を一瞥した鬼子は、最後に日本狗を見た。
「ひどい有様。明日ちゃんと部屋を掃除しなさいよ」
「そっちかよ……鬼かてめえは……」
「鬼よ。一目で判るようなこと訊かないで」
冷ややかに突っ込まれた。
「全く……こんな時間に起こされる身にもなりなさいよ。こにだって部屋で寝てるのに。
番犬やるつもりがあるなら、あの程度の雑魚は自力で倒して頂戴」
「あの姿で出てこられたら……躊躇うだろ、普通……」
「あら、ああいう子が好みだったの? でも妹があんな感じに育っても、あんたとの交際は認めないからね」
「茶化してんじゃ……ねえ……」
闇に閉ざされかけていた視界が、突然反転して真っ白になった。
投げやりな小日本の声で、日本狗は目を覚ました。真新しい布団の上で身体を起こして、伸びをする。
傷にはきちんと包帯が巻かれているし、部屋の血痕も綺麗に落とされていた。
「御飯持って来たわよ」
傷の入った戸が開き、粥を乗せた盆を持った鬼子が入室してきた。ろくに物音を立てていないのに、自分が起きた気配を瞬時に察知したらしい。日本狗は時々、この女が恐ろしくなる。
「結構寝てたわね。もう昼過ぎよ」
「あれだけ派手にやられたんだから、大目に見ろよ。お前がこの部屋を片付けたのか」
「何で私がそんなことしなきゃいけないのよ。都合良く朝からヒワイドリとヤイカガシがうろついてたから、とっ捕まえて掃除してもらったのよ」
あいつらが何かの役に立つこともあるのか、と日本狗は驚きを禁じ得なかった。
「小日本はどうしてる」
「あんたをやっつけるって、朝から庭で剣の素振りしてるわよ。元気が有り余ってるみたいだから、後ろから刺されないように注意するすることね」
「……そうか」
そのまま後ろに倒れ込み、少年は布団の上で横になった。
「もう少し寝るから、まだ飯はいいや」
「そう。食べたくなったら呼んで」
あっさりと踵を返して部屋を出ていく鬼子を見送り、日本狗は瞼を閉じた。そして昨夜の出来事を回想する。
客観的に見て、綺麗な女だったと思う。
あいつがああいう女になる頃、俺は一体、どんな奴になってるんだろう。
面から聞こえる小日本の声を聞きながらそんなことを考えていた少年は、再び眠りに落ちていった。