ID:BVQc6kTf氏の無題作品
鬼の子だ、鬼子が来たぞ。
少女の進む道は、きっとこの立ち並ぶ宿場のように閉ざされてしまっているのだろう。
少女の進んだ道は、きっとこの街路のように、人気のない寂しい孤独の道であっただろう。
誰とも知れぬ町人の警報は瞬く間に市場を巡り、声高々に値引きをする町商人も和気藹々と買い物を楽しむ人も、楽しそうに鞠突きをする童も居なくなってしまった。
天道は南の空高くに存するにも拘らず、まるで新月の支配する闇夜の如く、町は変貌した。
少女は鬼であった。二本の歪なる角が憑依する頭付きを一目するならば、誰も彼もが少女を蔑みの名で呼び表されるその理由も至極当然のことであろう。
然し、少女は閉ざされた戸を叩く。誰か、誰かいませんか。その戸の奥に温もりが在ることは確実であった。だが返事は無い。
少女はそれ以上の行為に及ぶことはせず、隣の戸に移る。誰か、誰かいませんか。待たずして返事は来る。
ああ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
悲鳴の混じる小さな洪水に、少女は無言で立ち去った。
どうして、と少女は思う。どうして私を嫌うのでしょう、私もあなたも変わらないというのに、ただこの角があるだけで。
涙は親に捨てられたあの日に流しきってしまった。涙川に流してしまったのだろうか、親の姿も己が名も忘却の河の彼方を漂っている。
枯渇した川の底には、ただ、淋しい、という感情だけが取り残されていた。
無言の町の中を、脂ぎった黒い鼠が走っている。その口には、露店に置かれていた橙を咥えており、やがて道の真ん中でその夕焼けの皮を剥ぎ取り喰った。
私もあなたのように出来たらいいのに。少女は鼠の元へと歩みを進めるも、鼠は一目散に去って行ってしまった。卑しくも、食いかけの橙と共に。
いつしか表の街道を逸れ、空気の淀んだ裏に出る。鼠の数と、それを喰らう猫の数は増してゆくものの、つゆとして人は居ない。
お腹が減った、と口にして後悔をする。ただでさえ空腹であるのに、まして自覚するとなると各段にその辛苦は増えゆくのである。
お嬢さん、異形の者かな。不意に黒髪の背から声がし、少女の息は固まった。
振り返れば、布切れをまとった腰屈みの翁の瞳が在った。少女はふと、罅割れた大地に一滴の雫が垂れるのを見た。
御守を頼みたいのじゃ、そなたにしか出来ぬ者がゆえ、ひたと探しておった。少女は頷いた。確かに少女は雫を見たのである。
腰屈みはその身に相応しからぬ、厳かなる邸宅に身を据えていた。垣根の外壁に古風な門。更には広大な庭と来て、池を渡りて漸く宮殿に辿り着くのである。
内は何畳もの広間に、名の知れた屏風や陶器が所々に飾られている。少女は呆然と光景を見つめると同時に一種の不安を抱くようになった。
然しながら既に貶され続けてきたこの身に、これ以上何の苦痛が在ろうものかと腹を括るのであった。
広間は中庭に続いていた。外庭とは一変し、静かなる時を刻んだ、侘びと寂と趣を感じさせる庭園である。
一角で鞠をつく童の娘が居た。恋い焦がる 幸せの裾 分け合わし――と童歌の声に乗じて結わく髪が揺らす。
あの娘がそうじゃ。一言に身の毛を震わせる。蘇るは幼気の昔。仮に鞠つく娘が少女の姿を見、恐怖し、涙を流すのであらば、それは少女の失われし記憶である。
あの悲しみを、再び取り戻すことになるのだ。親に捨てられし己が姿を。
すみません、私帰ります。会釈をし引き返す少女を止めたのは、角の生えた少女よりも遥かに幼き、かの娘であった。
「ねねさまは、こにといっしょだね!」
足を留め、娘と対峙したとき、確かに少女は幼き記憶を取り戻した。
「あなた、角が……」
成長しきらぬ小さな角が、少女と同様に生える額の角が、見誤らず幼き童に憑依しているのである。
「ああ、なんて……」
幼き頃を思い出す。
「なんて、不幸なのでしょう」
自ずと溢れ出る雫は、確かに少女の心を解いて行くのであった。
こに、と自称する小日本と言う娘もまた、少女と同じ奇遇の者であった。親に捨てられた所がこの邸宅の門構えで在ったことが二人の宿世を別った唯一の点であろう。
独り身の翁は異形で在るにも拘らず、この娘を慈しみ育て、景徳鎮の壺に入る水までもが溢れんばかりの愛情を注ぎ、今に至るのであった。
「外の世界を見せてやれぬのが、誠に残念なことだがの」
言わずもがな。そうでなければ、これほどの笑顔を見せることはなかろう。
「ねねさまはなんてお名前なの?」
小日本の君は、澄んだ水晶の如きまなこを輝かす。眩しすぎるあまり、直視し難いものであった。
「私、名前なんてありません。ずっと、鬼の子、鬼子、などと呼ばれ続けてきましたから」
元来在ったのかも知れぬ。然し小川が元に戻ったからと言って、流された草花まで返ってくることは無い。もはやそれは忘れたのではなく、存在そのものが無いのである。
「おかしいよ。ねねさま鬼じゃないもん。鬼はもっともっと怖いもん」
少女はぎこちなく微笑んだ。形ある言葉で返すことも、大笑いして事実を隠すことも、今の少女には無理な話なのだ。
「儂の灯も幾許か。姓であらば儂の物を使うが良い。この娘にも与えた、日本、という姓じゃ」
少女にとって、それは初めて人から与えられた物であった。石や木片を投げ与えられたことは幾度かあったものの、温もりを抱く物を受け貰うことなど無いのであった。
「こにといっしょだね!」
世の冷たき風を知らぬ幼き子に射抜かれると、何と無しに心苦しき思いが募り積もる。
少女はこの娘に、荒ぶ心に花を咲かさせた。ならばと、この娘には幸せを見させてやりたいものだと思った。何処までもその瞳の潤わしき様を果てさせぬと、心に誓う。
「……鬼子。私の名前は、日本鬼子です」
少女は名乗った。敢えて、蔑称をその名に組み入れたのだ。
「どうしてそのような名前を」
その心を尋ねる腰屈みの翁も、そして小日本の君もまた、少女の志を解さぬ有様であった。
「守ってあげたいのです。この子を、なんとかして守り抜きたいのです。……だって、こんな子が穢されていく様を、どうして直視することが出来ましょう。
そのためなら、私はこの身を捧げます。二人として、誰かを私と同じ境遇には居させたくないのです」
鬼子の決意は岩鋼の山より固かった。それは、彼女の紅葉色の瞳を見れば瞭然のことである。
もしも、少女に鬼として生まれた意義を問われるのであれば、それはここにあるのであろう。
「それなら、こにはねねさまを守ってあげる!」
小日本が、満面の笑みを咲かせ、その場でくるりと一回転する。
「ねねさまを、たくさんたくさん笑顔にさせてあげるね!」
その健気な姿に、角の生えた少女は思わず感情を高ぶらせ、再び心に滲む雫を落とすのであった。
後の世に、二つの異形の物が里に下り、一つは民々の心の闇を祓い取り、また一つは荒れ果てた心に一輪の花を咲かせた――と、もとの本にはあるのだそうだ。
花開く いのち息吹けど 鶯の なく声聞かで など失す父や
ふわふらる 夢の中見る 桜着を はじめてくれた やさしい笑顔 ∨1
腰屈みの翁が儚くなり、幾日が経ったのであろうか。悲しみが流るには短すぎ、桜が散るには長すぎる時の間をこの屋敷の中で隔て生きていた。
小日本が独り中庭で鞠をつく。鞠が地につく度、娘の髪に結わえられた鈴の音が耳に入る。鬼子はその様子を眺め、いつしか山菫の香の籠る空を仰いでいた。
今日も桜の姫は美しき鬼を鞠つきに誘っていたのだが、彼女は断った。
しばし不満を浮かべた気色を見せるも、やがて諦め、独りで鞠遊びを始める。しばらく遊んだのちに、疲れて寝てしまうことであろう。
「父上にあのような約束をしましたのに、一体何をしているのでしょうか」 ∨2
幼き鬼を守らんとする由を誓ったはずであったのだが、結局少女は何一つとして尽くすことはしてやれず、逆に鞠をつく娘に気を遣わせているだけなのであった。
せめて食事だけでもと台所に向かい、漸く事態に気付いたのである。亡き身が残した食が底をつきはじめているのだ。
二つの異形者を思う翁が、せめて少しでも憂き目に遭わせぬよう世を去る間際に漬けられた大根や筍、花梨の他、稗と山芋も数度かの食卓分を残すのみである。
恐れを抱くも、その解消する術は無い。何故なら、かの角の生えた少女は小日本の君を守る宿命が与えているからである。 ∨3
鬼子は遊び疲れた娘が昼寝を始める間合いを見計らい、心に雪を降らせ、荒びはじめた門を開いた。
鬼の子はとある希望を抱いていた。時の力は偉大であると、ひた思い描いていた。人々が鬼の存在を忘れているものであろうと信じたのである。
それは恐らく、長く幸せな日々が続いていた表れなのであろう。
豆は醤油と為るが如く、記憶は日々を以って思い出と為る。温もりの日々は良き麹となり、苦痛なる雑味を抜き取るが如く。
鬼はその真実を受け入れざるを得ず、そして浅はかなる己が心と酔いしれる己が行いを恨み、憎み、悔むのである。
鬼が来たぞ。鬼の子だ。
世の末を髣髴させる絶叫の嵐の中心に、賤しめの少女は位置していた。この世に生を授かるのちより、鬼子と日常は馬防柵によって遮られていたのだ。
鬼だ、逃げろ、喰い殺される。
その喧噪の中、か細き少女の声がどうして誰か耳に届こうか。どなたか、食べ物を分けては下さいませんか。その静かな声を、誰が鬼の声でないと理解出来ようか。
逃げ遅れの童に声を掛けると、気が動転したのだろう、鬼に向かって小石を振り投げた。それは弧を描いたのち、気味悪き角に当たる。 ∨4
刹那一体は凍りついた。童の行為は身を生贄に捧ぐと同等の行為であるからだ。しかし、庇護ある鬼はただ温かく問うだけなのだ。童部君、食べ物を分けてくれないかしら?
こつり、それは何処からの投げ石であった。怒りを抱かぬ鬼と民々は認識し、やがて日頃の恨みを晴らすが如く、四方から八方から石や家具の篠突く雨が降り注ぐ。
然し少女は耐えた。仮に力を振るわば、再び糧を乞いることが出来ぬからか。否。力を振るわば、小日本の君に世の冷え切った風を直に浴びることになるからだ。
少女は耐えた。何時にや冷めぬ、言葉と塊の雨を被りて。
何事だ、騒々しい。
大通りから、蹄の音と共に響く声に、雨は俄に止んだ。
だが疵付いた鬼の子には、その声が光であるという淡き期待は元より存することは無いのであった。
薙刀を手にする下部を具し、馬に乗ずる者を見るなり、民衆は跪き、顔を地に付けた。鬼の子だけが呆然と騎馬を見つめるばかりである。
御殿様、その異形が鬼であるが故、何れかを喰らう前に懲らしめようと思った次第でございます。平伏した男が申し上げると、殿なる男はあやかしを睨み見つめた。
ほう、成程確かに鬼であるな。長髪の根より出ずるそれを凝視する。御殿様、鬼は私めらの家々を回り、糧を奪おうとしております。
違います、私はただ。とここで鬼の言葉は殿の言葉に掻き消される。ほう、その着物、よもや日本公の姫君の形見では在りますまいか。
背の筋が硬直し、小日本の顔が思われる。然し殿は形見と言い、詰まる所翁の早くにして世より消え入る実の娘の着物についてを物語っているのであろう。 ∨5
己が喰らうか、我が恩師なる日本の大殿を。いえ、違います、私はあの方にとても御親切にされました、どうして恩を仇で返さなくてはならないのですか。
懸命なる弁解は却って人々を怪しませることになり、馬上の男は命じて屋敷を調べさせた。鬼の子は捉え抑えられ、引き剥がさんと為せば為す程束縛は強くなっていった。
邸宅の中には小日本の君が居るのだ。どうか隠れていて欲しいと願うも、寝惚け眼の娘を引き掴んだ男が門より出でる様を見て、全ての力が抜き取られてゆくのであった。
これも鬼の子だ。下賤なる男が桜の娘の腕を引き、釣り上げた魚の如く見せしめる。
やめて下さい、こにちゃんは、こにちゃんだけは、どうか放してやって下さい。
何を言うか、もはや動けぬ卑しき鬼の子め、己に何の権利がある、厄害は皆切り捨てるべきであろうものに。 ∨6
こにちゃんだけでいいのです、どうか放してやって下さい、身を尽くしても、あの子だけはどうか。鬼の子は何としてでも小日本に手を出さぬよう乞いに乞いた。
身を尽くすか。殿の声が心なしか間延びしている。さすれば、我が召使いとして奉ずるか、千歳に渡りこの吾が身に仕えるか。
鬼の子は思い案ずる。小日本の他、然し己が身に何が在ろうか。だが決意は既に固まっていた。さしてこの子が救われるのであらば。 ∨7
ねねさま、どうしてこにはこんな所で寝てるの。小日本の君が漸く事態に気付いた。
鬼子は娘の眠る間にこの場を去れればと思っていたものの、永遠の別れと桜の君の柔らかな髪を撫でた。小さな鈴が哀しい音を奏でる。
こにちゃん、ごめんね、私あの方の所に行かなければいけないの。やさしい口調で諭すと小日本は、ならこにも行く、と満開の笑みを咲かせた。
こにちゃんは来ちゃ駄目だよ。やさしく、慈しむようにその絹の髪を撫でる手が震え、その白い手に透明の珠が零れ落ちる。
ねねさま、どうして泣いてるの。その疑問に、男が嘲笑を交え言い放つ。この鬼は愛するそなたを救う為に御殿様に身を捧げるのだ。
ねねさまは、こにに身を捧げるって言ってくれたよ。その問いに、だから御殿様に身を捧げたのだ、と返す。
早くせよ。殿が部下に命じ、鬼子と小日本を引き離そうとするも、さようなら、と鬼子は自ら小日本から離れた。
やだ、ねねさまと一緒にいたいの。その声を、鬼子は敢えて聞こえないことにした。馬に乗せられた鬼子を追い掛ける小日本が殿の部下に取り押さえられるのを冷酷に見つめていた。 ∨8
なお暴れる幼き子に舌打ちをし、下部は小君を突き飛ばした。然し少女は立ち上がり、妨げにも負けず鬼子との距離を縮めようとする。 ∨9
「だめぇ! みんな仲良くするの!」
小日本のその無力で悲痛な訴えに、二つの鬼は共に嗚咽を漏らした。
一つはただ純情なる心を持たせ続けてやりたかっただけであった。
一つはただ自らの幸せを与えてやりたかっただけなのであった。
それだけであった。ただそれだけを求め欲しているだけであるのに、どうして別つ理由などあろうものか。
ただ、謂れが在るが故、無力であるが故。
ただ、それだけである。
「鬼だ!」
その雄叫びは二体の鬼に対して指された蔑称ではなかった。西へ続く大通りから農夫が足を引きずり、何度も鬼の名を叫ぶ。
近付くにつれ、その姿に思わず悲鳴が上がる。農夫の衣には大量の血潮と泥で穢され、その左足首はもはや脹脛から下げている飾りのようであったのだ。
「みんな食われちまったんだ!」
途端鬼子を目とする野分きは崩れ、民は散り散りになる。
「己が親身か」
殿は馬を止め、気魄により瞳に血を充たし、若き鬼に啖呵を切り責めた。
「いえ、父も母も人身の者です。決して鬼などではございません」
首を大きく横に振るも、如何わしい視線を耐えることはしない。然しながら、何故にかの少女は親が鬼ならぬ者であると断言出来たのであろうか。記憶はとうに失せているのに。
人々は我先にと走り惑い、弱き者は捨てられ、父も母も同胞も全て見捨て、誰彼も出し抜く者もまた躓けば踏み潰される定めとなる。
「どうして、皆さんは逃げるのですか?」
「鬼の身が何を言うか。鬼の現れたる地は、並べての茅は煙と為り、人は骨すら残らず失せるのだ。我が豪勢もここで尽き果てるのだろう」
殿までもが無常に打ちひしがれるのであれば、余程の事態でなければ無かろう。
小日本の泣き声は未だ止まず。鬼子は、あの子だけでも守らねば、否、あの子はそれを望まず、皆の平安をこそ祈っているのだと思った。
例え、守るべき皆がその身に害を齎す者であっても。いや、小日本には分かっているのかもしれない。何れかが先に心を開かねば、新たな出会いは始まらぬことを。
日本鬼子は、この身に決意を為した。
「御殿様、私が怨をお祓い致しましょう」
「何を言うか、鬼の身よ。手合いを得て我々を――」
然しそれ以上の事は言えなかった。燃えたぎる異形の暁紅なる眼差しに囚われ、やおら頷いた。
「行くが良い」
脂汗を垂れ流す殿は、辛うじてその言葉を述べるまでであった。
騎馬より舞い降りし少女は部下の薙刀を取り、日の沈む標となるその道を見つめる。清らなりて冒し難き姿を曝け出し、由由しき灯火と成り、雷光の如く飛び立った。
その後の鬼子の記憶は存しない。詰まる所、何処に新たなる鬼が居るのか、如何にして鬼と交わるのか、甚だ覚えに無いのである。
その代わりと言うべきか、己が無意識の雷鳴に蘇るか、遠き海津見の潮染みた木板小屋を眺めていた。
神怒り鳴る黒き空の下、濁流の波を内被り、尚歩む二人分の足跡も、やがて消え失せる。屋根壁の剥がれた家に入り、その場で母子は力尽きた。
父は先に旅立ち幾日が経つ。足止めの差も縮み、残されし術も僅かである。その為か、母は撫でし子を慈しみ抱く。その温もりを、震えを、微かに感じ取った。
ごめんね、ごめんね。と掠れた声で囁くも、波雨風の轟きに掻き消される。どうして泣いてるの。幼き子は尋ねるも、母は抱く力を強めるのみである。
一時経ち、浜に似合わぬ蹄の音が混ざり聞こゆ。
荒波に 易く消えらる 海女の小屋 物はあらねど 咲かなむ撫子
古板の 波に呑まるる さまなれど 母海なりて まもりたるのみ
あなたの返歌はまた会えるその日までと言い、使えぬ竈の中に子を隠し、嵐が止むまで、きっと出るなと念押しし、母は篠突く雨の外へと出た。
鬼の子は何処や。低き男の声がするも、母は動じず答える。ええ教えられませんわ。
さならば詮索するのみ。男は命じて下部を小屋に入らせるも、母は淡々と言う。貴方がたは鬼を狩って祟りが起きないとでも思っていらっしゃるのですか。
子は、その言葉に心に罅が入った。母は常に愛娘を異形では無いと庇護し続けて来た。その存在が瞬く間に変貌するは、砂に染み込む雨の如く、子の心を毒す。
私が全ての責任を追います。この身を貴方様へ捧げましょう。それは何時の日にか耳にした言葉であった。
今、鬼の子は全てを悟った。母の歌の心も、幼き鬼子の胸を潰す僻事の故も、母の強い慈しみの情も、また自身が小日本に対して同じ過ちを為さんとしていることも。
輪廻は生死の流転であると思っていた。然し禍は常に現世を流れ回っているのだ。そして流れを止めるべきは、今でしか無いのではなかろうか。
あわよくば幸ある流れへと。例えるならば春夏秋冬循環の如く。
歩むべき道は一つ。例え嵐の道であろうと、高潮の道であろうと、力強く前へ行く決心を固めた。
呼ぶ名が聞こえ、そのまま鬼子は両の眼を開く。
「ねねさま!」
一声は、桜の衣を纏う小さな珠の子であった。
そこは腰折れの翁の屋敷の幾倍は在ろうと思われる大邸宅であった。自称して豪勢と抜かすも強ち間違いでは無かろう。
「我々が赴いたときには既に鬼の姿は無く、そなたが倒れておった。邪気も失せれば、まず悪しき鬼は祓われたと考えて良かろう」
「ねねさま、とても哀しそうな顔してたんだよ……」
恐らく消えし記憶を辿っていたからであろう。然しながら今はその俯く小君の様子の方が一層哀しみに満ちている。
「ごめんね、こにちゃん」
ううん、と首を振り、大丈夫と満面の笑みを浮かべるを見て、鬼子も微笑むことが出来た。幼子と出会う以前よりかはずっと自然な微笑みであった。
「ところで二方よ、今後は如何に致すか」
胡坐を掻く殿は身を乗り出す。
「恐れながら御殿様、私は貴方に身を捧げた身です。貴方の御心に随わねばなりません」
「これこれ何を申すか」
と殿は笑い、続ける。
「異形とは言え我が国を救った恩人に、どうしてその身を籠の内に閉ざす義理が在ろうか。……とは言え、屋敷に住むので在らば、身果てるまで何せずとも暮らす保障をしよう」
殿なりのお詫びなのであろう。然しながら、最早鬼子に必要の無い物なのであった。
「旅に出ようかと思います。この世の鬼に怯える人を、人に怯える鬼を、その恐れから、その不安から芽生える卑しき心を散らしていきます。心に棲まう鬼を祓う旅です」
そして、何処にか住まう別れし母を見つけるために。
「……こにちゃんも、一緒に行く?」
そして、この小さな可愛い娘と共に。
「うん!」
その二人の光景に、殿は感慨深い面持ちで二人を見遣り、そして紙を引き寄せるとその場で歌を書き付けた。
萌える葉は いづれか散りて 地に伏せど 土に還りて 便りぞ待たむ
萌える芽に 咲ける桜も 所狭く 人の心を いざ開かなん
「旅出の安全と成功を祈ろう。さあ、持って行きなさい」
と、殿は二人にそれぞれの歌を渡すのであった。
――こうして二人は世の平安を為すため、途方なる旅を続けたのだが、それはまた別の話なのであろう。もはや私の口から語るものでは無いからである。